19歳で俳優としてデビューして以来、長きに渡り、父親・三國連太郎さんとの確執が噂されてきた、佐藤浩市(さとう こういち)さんですが、実際はどうだったのでしょう。今回はそんな佐藤さんと三國さんの関係について調べてみました。

「佐藤浩市は母親と30年絶縁も認知症後は同居していた!」からの続き

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父親・三國連太郎から縁切りを言い渡されていた

佐藤さんは、小学校5年生の時、お父さんである三國連太郎さんが家を出る形で両親が離婚しているのですが、三國さんには伊豆の十国峠に連れて行かれ、

これが君との最後の別れだ。君はおふくろのところへ帰れ。僕は放浪生活を始めるから

と、別れの言葉を告げられてしまったそうで、その後は、お母さんと二人で暮らし始めたそうです。

そして、まもなく、お母さんが連れてきた内縁の夫との3人暮らしが耐えられず、高校2年生の時には、実家を飛び出して、アパートで一人暮らしを始め、やがて、俳優を目指すようになったそうですが、

その際、三國さんに俳優を目指す旨話すと、

その時にも、三國さんには、

僕は何も教えられないよ。親子の縁を切りましょう

と、突き放されたそうで、

佐藤さんは、三國さんがいないものとして、俳優の道を進もうと決意されたのだそうです。

2世俳優として

こうして、少年期に、実の父親から、まさかの「縁切り」を言い渡されたうえ、その後、俳優の先輩としてもシャットアウトされた佐藤さんですが、

それでも、「三國連太郎の息子」として扱われ、そのおかげで、映画デビュー作「青春の門」では、いきなり主演に抜擢されるほか、多くの業界人が受け入れてくれ、現場ではかわいがってもらったことを認め、

(三國さんがお父さんで)得したのは、デビューして最初からいい役が付いたことです。時代的にもちょうど、映画界の諸先輩のご子息たちがポツポツ役者として出始める頃で。そういう意味でとても恵まれていたし、それを勘違いした部分も当然ありました。

と、語っておられます。

父親への反発

とはいえ、佐藤さんも、俳優デビューした19歳の当時は、

反感はありませんけど、僕と父とは関係ありません

目の上のたんこぶという言い方が一番近い

何年か後、三國さんをつぶせる力をつけた時に共演したい

と、三國さんに対し、反抗心をむき出しにしたコメントをされていました。

映画「美味しんぼ」で初の親子共演

そのため、お二人は、仕事で顔を合わせることはほとんどなかったのですが、佐藤さんがデビューしてから15年経った、1996年、35歳の時、映画「美味しんぼ」で、ついに、三國さん(73歳)と初共演されています。

(1986年、映画「人間の約束」でも共演されているのですが、直接関わり合う場面は少なく、この映画「美味しんぼ」が実質的に初共演だと考えられています)

実は、この共演、海原雄山役を演じることになった三國さんが、海原雄山の息子・山岡士郎役に、実の息子である佐藤さんを指名して、実現したそうですが、

劇中、山岡は、母を過労死に追い込んだ父親を恨んでいるという設定で、現実のお二人の親子関係にもリンクするような設定だったそうです。


「美味しんぼ」より。(左から)三國連太郎さん、羽田美智子さん、佐藤さん。

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映画「美味しんぼ」制作記者会見は終始ピリピリムード

ちなみに、その記者会見では、お二人そろって登壇されているのですが、お互いを、「三國さん」「佐藤くん」とまるで他人のように呼び合い、

佐藤さんが、

俳優とはサービス業。親子が親子を演じることに勝るサービスはない

と、語るも、

三國さんは、

カメラの前で演じる瞬間はサービスではない

と、言い返すなど、終始ピリピリとしたムード。

これに、マスコミには、こぞって、親子の確執と報じられているのですが、

佐藤さんいわく、

よく言われますが、別に不仲だったわけではないんですよ。一つだけ言えるのは、僕も、きっと三國も、一緒にいることのハードルを変に上げすぎたんですね。

とのことで、

実際、佐藤さんは、幼い頃、三國さんによく撮影現場に連れて行ってもらったそうですが、自身も、息子・寛一郎さんを、幼い頃から、よく撮影現場に連れて行かれていたようです。

「佐藤浩市と三國連太郎は寛一郎の存在で急接近していた!」に続く

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