19歳の時、俳優を目指していることを、お父さんの三國連太郎さんに告げると、「親子の縁を切りましょう」と言われ、以来、父親への反骨精神から俳優業に邁進された、佐藤浩市(さとう こういち)さんですが、後に、お父さんの本当の気持ちを知ることとなります。今回は、そんな佐藤さんの三國さんへの想いを、ご本人のインタビューとともにご紹介します。
「佐藤浩市と父・三國連太郎の初共演は終始ピリピリムードだった!」からの続き
息子・寛一郎の存在が三國連太郎とのかすがいに
父親・三國連太郎さんとの初共演映画「美味しんぼ」の記者会見では、終始ピリピリムードだったことから、マスコミには、こぞって不仲が伝えられた佐藤さんですが、
1996年に「美味しんぼ」が公開された後、佐藤さんに息子の寛一郎さんが誕生すると、
親父は、うちの坊主(寛一郎さん)には、自分のことを“レンちゃん”と呼ばせたり(笑)。まあ、可愛がっていましたね。すでに70代の彼から見れば、遅い孫でしたし
と、家庭からもっとも遠いイメージのあった三國さんが、孫を溺愛するようになったそうで、
寛一郎さんの誕生日や運動会には必ず駆けつけるなど、孫の存在がかすがいとなり、この頃から、佐藤さんと三國さんの関係も確実に変わっていき、親子で談笑する姿が目撃されまでになります。
寛一郎のために佐藤浩市と三國連太郎が朗読劇を披露
そして、2009年春、寛一郎さんの小学校卒業時の謝恩会では、親による出し物で、佐藤さんと三國さんが2人きりで朗読劇を披露。
なんと、脚本は、佐藤さんたっての希望で、友人の三谷幸喜さんによって書かれたものだったそうで、
佐藤さんの知人の話によると、
三谷脚本による、父と子の機微を2人がかけ合いで演じて、謝恩会の会場は大きな笑いと感動に包まれました。
演じている佐藤さんと三國さんも本当に嬉しそうで、何とも豪華な「父子の共演」を寛一郎さんは目のあたりにしていたんです。祖父と父の仕事を強烈に意識しなかったはずはないでしょうね
と、親子3代で幸せな時を過ごされたのだそうです。
父親・三國連太郎とは不仲ではなかった?
こうして、寛一郎さんの存在を介して、三國さんと急接近した佐藤さんは、
2019年、「文藝春秋」(5月号)のインタビューでは、
まだ自分の力がないとき、親父の名前で仕事をもらっていたにもかかわらず、非常に不遜な思いでいたのは確かです。スタッフから「次の現場は息子さんと一緒なんです」と言われれば、三國は当然のごとく「浩市をよろしくお願いします」と返すわけでしょう。
あとでそのスタッフから伝え聞いて、「あんなこと言わないでくれよ」って三國に当たったこともありましたね
役者稼業が3代続いて、僕は親父の気持ちもわかるし、息子の気持ちもわかる立場。現場で父親の名前を出されるのも不服だろうし、たとえば、僕が息子の共演者となる役者に「よろしく頼む」などと言うのも困るし、振り返れば、僕もすごく嫌だった
と、語っておられます。
そして、2020年、「女性自身」(3月24・31日合併号)のインタビューでは、
よく言われますが、別に不仲だったわけではないんですよ。一つだけ言えるのは、僕も、きっと三國も、一緒にいることのハードルを変に上げすぎたんですね
と、お父さんとの確執があったことを否定されています。
父親・三國連太郎との関係の後悔が原動力に
そんな佐藤さんは、34歳だった三國さんが、老人役を演じるにあたり、なんと、麻酔なしで10本も歯を抜いたというエピソードにも触れ、
後日談があって、役者はその時はいいけど、撮影が終了した途端、深い後悔が始まるもの。彼は本や世間では言いませんでしたが、僕には「あんなことするもんじゃない」と愚痴ってましたね(笑)
と、役作りにまつわる会話や、共演ももっとしておくべきだったと、後悔があることを明かされているのですが、
「美味しんぼ」の前にも、もっと若くて激しい親父と共演したかったとは、いまだに思いますね。ですが、その後悔が、自分が役者として前に進むときの後押しになっているのも本当なんです。
と、語っておられました。
父親・三國連太郎との最後の散歩
そして、佐藤さんが、19歳の時、役者を目指していることを三國さんに告げた際、
三國さんから、
親子の縁を切りましょう
と、突き放されたことについても、
後に、三國さんから、
あのとき、お前に、何にもなかったら、どうしようかと思った
と、打ち明けられたそうで、
佐藤さんは、この時初めて、三國さんの佐藤さんを思う本心に触れたそうですが、
2013年の早春、映画の仕事でニューヨークに行く直前に都内で車を運転していて、たまたま親父が入院していた府中の近くを走っていることに気づいて。なぜだか、ふと立ち寄ったんです。
桜には早いかと思いながらも「散歩でもするか」と、僕が車いすを押して庭に出たんですが、親父がすぐに「寒い」とか言い出しちゃって病室に戻った。で、ニューヨークに行って帰ってきたら逝っちゃってたんですよ。
ほんの10分ほどでしたが、でもあの散歩があったおかげで、悔いは残らなかった。不思議なものもあるもんだなぁ、助かったなぁと。きっと神様が、最後に親子の別れのシーンを演出してくれたんだろうな
と、三國さんが亡くなる直前に共に時間を過ごせたことに感謝するまでになっていたようです。
父親・三國連太郎の希望する散骨をしなかった理由とは?
また、三國さんは生前、散骨を希望されていたそうですが、
「なんで叶えてやらないんだ」と言われればそれまでだけど、なかなかできないものなんですよ。一緒にいる時間が少なかったから余計にそう思うのか、僕の中でもまだ答えが出ていないけれど、やはり自分の思いとして、墓を作ってあげたいなと。だから彼の散骨希望は、僕が勝手にやめにしました
と、佐藤さんは、散骨はせずに仏壇を作られており、
あまり信心深い人間ではないですけれど、朝起きて、仏壇を開けて線香あげて、「親父、今日も家族みんなの健康を頼むよ」ってお願いするときには、(お父さんを)思い出さざるを得ないです。
と、今ではすっかり、昔のわだかまりは消え去って、普通の親子同様のコメントをされていました。
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