様々な出版社に漫画の原稿を持ち込むも、ことごとく採用されなかったことから、ついには、漫画家になる夢を諦め、アニメーターになる決意をした、宮崎駿(みやざき はやお)さんですが、当初は、漫画への気持ちがなかなか断ち切れなかったといいます。

「宮崎駿が漫画家志望からアニメーター志望となった理由とは?」からの続き

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東映動画に入社するも漫画家への思いを断ち切れず

幼い頃の夢だった漫画家への道を諦め、アニメーターの道を歩むことを決意した宮崎さんは、以前、「東映動画」の長編第1作目「白蛇伝」(1958年公開)予告編で、「東映動画」社長の大川博さん自ら、

これから向こう10年、1年に1本ずつ、長編映画を作っていきます。だから、我こそはと思う人は、どんどん来ちゃって下さい

と、求人募集していたのを思い出し、1963年、22歳のとき、応募すると、定期採用で採用されるのですが、

いざ、「東映動画」に入社すると、「東映動画」が制作する作品には、当初の「白蛇伝」のような新鮮味が薄れていたそうで、1962年に公開された長編動画「アラビアンナイト シンドバッドの冒険」に至っては、宮崎さんいわく、「最低の作品」だったそうで、もともと好きだった漫画への思いは、なかなか断ち切ることができなかったそうです。

(「アラビアンナイト シンドバッドの冒険」は、1962年6月24日付の「朝日新聞」でも「技術的には高水準だが、豊かな夢が不足している」と酷評されていたそうです)

テレビ用の簡略化したアニメがもてはやされるように

そんな中、手塚治虫さん率いる「虫プロダクション」が、1963年、国産初のテレビシリーズ「鉄腕アトム」(1963年~1966年)の制作を開始すると、(漫画の人気を前提とする)殺人的なスケジュール・低予算・低技術・重労働での制作だったにもかかわらず、絶大な人気を博し、

新規参入の制作会社が軒並み設立されたほか、少しでも経験のあるアニメーターが高級管理職扱いで歓迎されるなど、アニメーション産業に劇的な変化が起こったそうで(そのため、技術水準は下がりに下がったそうです)、

その後、「東映動画」も、「狼少年ケン」(1963年~1965年)でテレビ業界に参入し、ついに、それまで主流だった、長編作品の質・予算・技術・精神は衰退の一途をたどったのだそうです。


「鉄腕アトム」より。

(以降、視聴者の間では、手間のかかるフルアニメーションとテレビ用の簡略化したアニメーションが、同じ「アニメ」とひとくくりに見なされるようになっていったそうです)

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「雪の女王」を観てアニメーターを生涯の仕事にしようと決意

そんな中、宮崎さんは、入社1年目の労働組合主催の上映会で、アンデルセン童話を原作とするレフ・アタマーノフ監督作品「雪の女王」(1957年・旧ソ連制作)を観ると、


「雪の女王」より。

ディズニー作品のような、運命に翻弄されるがままのヒロインと違い、自らをかえりみず、雪の女王にさらわれた親友・カイを探して、地の果てまで旅する少女・ゲルダの一途な行動や、

その行動により、運命が切り開かれていく様子を、ディズニー作品のような絢爛豪華なミュージカルシーンではなく、少女の内面をロシア的な叙情性溢れる繊細な心理描写で表現されていることに、表現の完成度、それに対する志の高さ、思いの強さなど、同じアニメーターとして衝撃を受けたそうで、

宮崎さんは、

「雪の女王」は、絵を動かす作業にどれほどの愛惜の念が込められるか、絵の動きがどれほど演技に昇華し得るかを立証していた。

ひたむきに純粋に、素朴に強く、貫く想いを描く時、アニメーションは他のジャンルの最高の作品達に少しも負けずに、人の心を打つのだと証明していた

これほどのことがアニメーションでできるなら、いつか自分もやってみたい、アニメーターになっていてよかったと思って、はっきりと腰が座った

と、今度こそ、アニメーションを一生の仕事にしようと決意されたのだそうです。

「宮崎駿の(実質的)監督デビューは「未来少年コナン」だった!」に続く

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