旧ソ連制作の長編アニメ「雪の女王」を観て、アニメーターとして生きていく決意をすると、「東映動画」で、「ガリバーの宇宙旅行」「太陽の王子 ホルスの大冒険」などのアニメ制作に携わり、早くも才能の片鱗を見せていた、宮崎駿(みやざき はやお)さんですが、そんな中、会社を退職してでも取り組みたい作品に出会います。
「長靴下のピッピ」の制作のため東映動画を退社
宮崎さんは、1969年9月から1970年3月にかけて、架空の民族紛争を描いたシリアスな漫画「砂漠の民」を「週刊少年少女新聞」で連載しつつ、1969年1月から3月には、「長靴をはいた猫」、1971年1月から3月には、「どうぶつ宝島」と、それぞれ、「中日新聞」と「東京新聞」の日曜版紙上に、無邪気な冒険漫画も連載されていたのですが、
「長靴をはいた猫」より。
「どうぶつ宝島」より。
(この2作品は、同時期に公開された、長編映画の宣伝として描かれたそうですが、むしろ、映画版よりも、宮崎さんらしい解放感あふれた作品となっていたそうです)
そんな中、1971年、「東京ムービー」の当時の社長・藤岡豊さんが、スウェーデンの児童文学「長くつ下のピッピ」をアニメ化しようと企画し、高畑勲さんに白羽の矢が立ったそうで、
高畑さんが、宮崎さんとキャラクターデザイナーの小田部羊一さんを誘われると、二人とも、「東映動画」を退社してでもアニメ「長靴下のピッピ」を作りたいと切望されたことから、3人で「東映動画」を退社し、「東京ムービー」の下請けをやっていた「Aプロダクション」(現在のシンエイ動画株式会社)に移籍されます。
(「長靴下のピッピ」は、1954年にスウェーデンで刊行された児童文学で、トランクいっぱいの金貨を持ち、馬を持ち上げるほどの力がある、赤毛のツインテールにそばかすだらけの顔で長い靴下を履いた女の子「ピッピ」が繰り広げる冒険物語で、長きにわたり、子どもたちを魅了し続けていたそうです)
アニメ「長靴下のピッピ」では日常の些細な動きにこだわっていた
こうして、「長靴下のピッピ」の制作に取り掛かった宮崎さんたち3人ですが、制作時間が限られていたことから、3人でとことん話し合うことはできなかったそうですが、
作品を作るうえで、靴を脱いだり履いたりするなどの日常の些細な動作、立ち振舞い、家事をする動作などの表現にはこだわることを共通認識として決め、
行動自体が楽しさや面白さを呼び起こすように表現したい
だぶだぶの大きな靴を履いているから、片っぽは脱げそうに歩いたらどうか
ピッピのことだから、まともに歩かないで、わざと歩道と車道の境目を歩くんじゃないか
と、ピッピの歩き方一つから思いを巡らせたそうで、
そのほか、何気ない日常生活の中で起こる事件や出来事にスポットを当てたものを描き溜められていったのだそうです。
宮崎さんが描いた「長靴下のピッピ」
アニメ「長靴下のピッピ」は原作者に許可されず断念
そして、宮崎さんが、話のもとになりそうな絵をどんどん描き、小田部さんが、それを取り入れたり、まとめ上げながらキャラクターを作り、高畑さんが、設定やあらすじを作り込んではキメの細かい演出を考えていく、という作業を続けていたのですが・・・
最終的には、肝心の、原作者であるアストリッド・リンドグレーンさんの許可が下りなかったそうで、その企画は立ち消えに。
それでも、この「長靴下のピッピ」の創作過程で生まれたアイディアは、後の映画「パンダコパンダ」(1972)、テレビアニメ「アルプスの少女ハイジ」(1974)、映画「魔女の宅急便」(1989)などに生かされたそうで、決して無駄にはならなかったのでした。