幼い頃から頭の回転が早く、高校も県内有数の進学校に進学したタモリさんですが、志望する早稲田大学には2浪の末ようやく合格したそうです。今回は、そんなタモリさんの浪人時代や早稲田大学時代についてご紹介します。
受験勉強中はぼんやり過ごし早稲田大学を不合格となる
高校3年生の時、初めてジャズを聴いて衝撃を受け、「モダンジャズ研究会」がある早稲田大学に進学を決意したタモリさんは、受験までの一ヶ月間、東京・目黒の従兄弟のアパートに居候したそうですが、
そのアパートが石材店の裏にあったことから、毎日、その石材店をぼんやり眺めながら過ごし、石材店の前の通りを挟んだ向かい側には、中国人の姉妹が住んでいたことから、その姉妹の家の前でめちゃくちゃな中国語を大声でしゃべって、姉妹が「誰カ、キタカ?」と言っているのを聞いて、楽しんでいたそうで、
そんな日々の中、銭湯から出て、坂を下りながら、
どうなるのかなぁ、俺は一体?
と、一抹の不安を抱えていたそうですが、
やはり、1963年、18歳の時、早稲田大学を受験するも不合格となってしまいます。
浪人生活中も勉強に身が入らず2浪の末ようやく早稲田大学に合格
そして、再び、タモリさんは、早稲田大学進学を目指し、浪人生となると、東横線の「都立大学駅」近くに住む、早稲田大学法学部に入った友人のアパートに居候し勉強に励んだそうですが、あまりに雑念が多くて勉強に身が入らず、
六法全書の「売春禁止法」の項目を読んだり、座禅を組んでは、言葉の無用さを悟ったそうですが、勉強の方はというと、なかなかはかどらなかったそうです。
すると、またしても、早稲田大学を不合格となってしまったそうで、1965年、20歳の時、ようやく、2浪の末、早稲田大学第二文学部に合格したのだそうです。
早稲田大学時代は友人の家に居候していた
その後、タモリさんは、「都立大学駅」の近くに住む友人の家に居候していたそうですが(浪人時代に居候させてもらっていた友人と同一人物かは不明)、それから約半年後、その友人とともに、「学芸大学駅」近くに住む友人のアパートに移り、3人で住むことになったそうです。
また、早稲田大学付近に住む友人の下宿にも出入りするようになったそうで、本来は、宿泊禁止だったそうですが(上の階に早稲田の学生が、下の階に大家さんが住んでいたそうです)、
タモリさんだけは、大家のおじさんとおばさんに可愛がられたそうで、おばさんのところでしゃべったり、おじさんと一緒にお酒を飲んだりしていたそうで、
タモリさんは、後に、
年寄りに対するアマチュアのインタビュアーとしては、ピカイチ、ですからねぇ……。戦前の事件とかをきいて「そういうことですか、真相は!」と。まぁ、当時から、「いいとも」やってたんですね
と、語っており、おじさんもおばさんも、タモリさんと一緒にいることが楽しかったようです。
早稲田大学時代には名古屋人の友人とパロディを作っていた
さらに、タモリさんは、仲の良かった名古屋出身の友人のアパートにも居候していたことがあったそうですが、
(この友人は、後に、漫画家・赤塚不二夫さんの自宅で自作のラジオドラマパロディを作る「劇団仲間」のメンバーとなります)
その友人のお兄さんがヴィブラフォンやマリンバの有名な奏者で、テープレコーダーやステレオなど、高価な機材を所有していたことから、そこで、番組のパロディなどを作って遊んでいたそうです。
(タモリさんは、この兄弟と親しくなることで名古屋人の特性を知り、後に、テレビやラジオなどで、名古屋弁や名古屋人の行動パターンを揶揄するネタのベースとなったそうです)
早稲田大学時代は貧乏生活だった
そんなタモリさんは、早稲田大学時代について、
僕が入学したのは昭和三十九年なんですが、その頃はまだ学生が貧乏でしたよ。学生の雰囲気も今とは全く違いますね。あの頃は慶応なら慶応、早稲田なら早稲田っていう学校の雰囲気があったんですよ。
今はもう同じような感じですね。それと、地方出身者が少なくなったのかな。昔は地方が多かったですよね。地方の稲門会の組織がしっかりしていたし。
「蛮カラ」も残ってましたね。「貧乏」を逆に自慢するようなところもあったしね。ひどい貧乏ですよ。ご飯炊いて醤油だけで味付けて食べてる奴とか、仕送りが来た時に大量にインスタントラーメンを買い込んで、そればっかり食べてて身体をおかしくした奴とかね。
靴の先のところが開きながら歩いている奴がいるんですよ。前から見ると靴が地面から離れてない(笑)。大学は、下駄が禁止なんですよ。授業中にうるさいから。でも、貧乏で下駄しか買えない奴がいたりね。僕も貧乏でしたね。でも、まだいい方だったかな。だから、今の学生がマンションなんかに住んでるのは信じられないですね。
と、語っておられました。
「タモリは学生バンド時代トランペットから司会者に転向させられていた!」に続く