小学生の頃、お父さんが他界したことから、貧乏生活を強いられた、山崎努(やまざき つとむ)さんは、中学卒業後は定時制高校に通いながら働いたそうですが、その後、19歳で「俳優座」養成所に入所した後も、貧乏生活は続いたそうです。
「山崎努は幼少期にして父親に対して自分を演じていた!」からの続き
父親が他界し少年時代は貧乏だった
お父さんが戦争から復員するも、その1年半後に他界されたことから、経済的に厳しい生活を強いられた山崎さんは、中学卒業後、アルバイトをしながら定時制の高校に通われたそうですが、
真面目に通ったのは高校1年生の時だけで、その後は、昼間働くと、夜は学校には行かず、当時、上野に4軒あった映画館を観て回るなど、上野公園近辺をブラブラとして過ごしていたそうです。
「俳優座」養成所に入所
そんな中、19歳の時、芥川比呂志さんの舞台「ハムレット」を観て感銘を受けると、何かエネルギーをもらったような気がして、俳優という職業に興味を持つようになったそうで、
演劇が好きで俳優を目指している友人(定時制の時の同級生)から、
一緒に俳優の試験を受けよう
と、誘われ、「俳優座」と「劇団民藝」の養成所の試験を受けると、見事2つとも合格。(残念ながら友人は不合格だったそうです)
そこで、山崎さんは、「俳優座」の養成所に入所されると、19~22歳まで3年間、演技を学ばれたのでした。
失神する演技はリアルだった
そんな山崎さんは、「俳優座」養成所の授業で、チェーホフの戯曲「結婚申込み」の求婚者役を演じたことがあったそうですが、興奮しすぎて本当に失神し、ひっくり返ってしまったそうです。
ただ、所長の杉山誠先生は、少し苦笑いしながらも、「みんなあんなふうにやるように」と言われたそうで、
(これが山崎さんにとって、演技をほめられた最初の経験だったそうで、今でも鮮明に覚えているとのこと)
その後、何人かの男子生徒が、一生懸命失神する演技に挑戦するのを見ていたそうですが・・・
実は、山崎さんは、演技力というより、お金が無くてろくにご飯も食べれず貧血気味だった、というリアルな環境下だからこそ出来たことだったそうで、
それを一生懸命演じようとする生徒について、著書「俳優のノート」で、
皆、純朴な連中だった
と、綴っておられます(笑)
ちなみに、この頃の山崎さんは、他人と目を合わせて話すことができないほど「赤面症」だったそうで、何でもないことを話している時にでも突然顔が熱くなり、あわててトイレに駆け込んだこともあったそうです。
(ただ、山崎さんだけではなく、クラスの半数以上の生徒が「赤面症」で悩んでいたそうです)
同期の女優・河内桃子に突然手を握られていた
また、山崎さんは、同じく「俳優座」の養成所での下積み時代、同期の河内桃子(こうち ももこ)さんに、廊下ですれ違った際、さりげなく手を握られて手に紙を握らされ、ラブレターかと思って一瞬身構えるも、手のひらには、小さくたたまれた千円札が握らされていたことがあったそうですが、
山崎さんは当時ひどく貧乏で、ボロボロのジーパンに破れたビニールの靴を布切れで結え付けて履き、いつも栄養失調でふらふらしていたことから、河内さんは同情し、他人に気づかれないように小さくお札を畳んで手渡してくれたのですが、
「ゴジラ」(1954年)でヒロインを演じられる河内桃子さん。
山崎さんは、このことについて、著書「俳優のノート」で、
いつか、さり気なく(桃ちゃんのように)お礼を言おうと思っているのだが、未だにその機会がないのでここに記す。あの握手は忘れられません。桃子さんありがとうございました。
ラヴレターよりずっと貴重なものを戴いたと思っています(実はこれも手遅れで、河内桃子さんは、先年、亡くなってしまわれた)。
と、綴っておられます。
(河内桃子さんは、この時、すでに女優として活動されており、「東宝」でヒロインを務められていたこともあったそうですが、改めて演技を勉強するために「俳優座」の養成所に入所されていたそうで、名家出身のお嬢様でもあったそうです)
「山崎努の若い頃は「天国と地獄」で黒澤明監督にラストを変更させていた!」に続く