19歳の時、芥川比呂志さんの舞台「ハムレット」を観て感銘を受け俳優を志した、山崎努(やまざき つとむ)さんは、「俳優座」養成所卒業後は、芥川比呂志さんに誘われ、行動を共にすると、やがて、巨匠・黒澤明監督をもうならせる才能を開花させていきます。

「山崎努は昔「俳優養成所」時代に失神の演技をリアルでやっていた!」からの続き

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芥川比呂志と共に「文学座」から「劇団雲」の設立へ

1959年3月、3年間の「俳優座」養成所を終えた山崎さんは、同年4月には、芥川比呂志さんに誘われて、「文学座」の研究員となると、翌年の1960年には、三島由紀夫さんの戯曲「熱帯樹」でデビューし、「大学の山賊たち」で映画デビュー。

その後も、「文学座」の舞台「犀」や、「地の涯に生きるもの」「東京夜話」と映画にも出演すると、芥川さん主演の「東京夜話」では準主役を務め、同年、早くも「製作者協会新人賞」に輝きます。

そして、1962年9月には、「文学座」の準座員となるのですが、翌年の1963年1月には「文学座」が分裂したことから、芥川さんとともに「文学座」を脱退し、「劇団雲」の旗揚げに参加。

ただ、1976年にはまたしても「劇団雲」が分裂し、以降、フリーとして、数々のテレビドラマや映画に出演されるようになっています。

「天国と地獄」では黒澤明監督にラストシーンを変更させていた

そんな山崎さんは、「文学座」が分裂したことで、「劇団雲」の旗揚げに参加した年の1963年、黒澤明監督作品「天国と地獄」に、冷酷でありながらも知的な誘拐犯・竹内銀次郎役を不気味に演じ、強烈な存在感を示されているのですが、

もともと、ラストシーンが、拘置所の地下から地上への通路で戸倉警部(仲代達矢さん)と権藤(三船敏郎さん)が立ち話をして別れるシーンで終わる予定だったにもかかわらず、

黒澤監督が、山崎さんの演技(アドリブ)を気に入り、

君の芝居が良かったから、そこでエンドマークにした

と、急遽、山崎さんのシーンをラストに採用されたそうで、この山崎さんのアドリブの演技は、黒澤監督の予想をはるかに超えたものだったようです。

(黒澤監督は、エキストラのおばあさんにまでダメ出しするほど細部に渡って演技指導することで知られています)


この、犯人役の山崎さんが頭をかきむしりながら、金網につかまり泣き叫ぶ演技のあまりの迫力に、黒澤監督が大感激したそうです。

ちなみに、山崎さんが握っていた金網は、照明のせいでかなり熱くなっていたにもかかわらず、山崎さん本人はそのことに気づかず演じ切り、「カット」の声で初めてやけどに気付いたそうですが、

この演技で山崎さんは一躍スターダムに駆け上り、その後も、「赤ひげ」(1965)、「影武者」(1980)など、黒澤監督作品に出演し、黒澤作品に影響を与え続けたと言われています。

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「天国と地獄」で一躍脚光を浴びる

そんな山崎さんは、同年、映画「五十万人の遺産」三船敏郎監督)に出演するため、フィリピン・ロケに行かれたそうですが、

フィリピンから羽田空港に帰国すると、

カメラマンがバチバチすごいんです。なんじゃこれは、って…。写す対象は三船さんだとばかり思っていたら、実は僕だった。犯人役が話題になっているなんて全然知らないんですよ。フィリピンにいたからね。ああいう経験は面白かったですね

と、「天国と地獄」の反響が凄かったそうで、

天国と地獄で一気に売れ、シンデレラボーイというんでしょうか、ゴールデンボーイとでも言うのかなあ…、一夜にして生活が変わりましたね

と、明かされています。

ただ、ある時、タクシーに乗った時には、運転手に、

あんたがあんな映画をやるから、世の中が悪くなるんだ

と、言われたこともあったそうで、

実際、映画「天国と地獄」が公開された1963年には、「吉展ちゃん誘拐殺人事件」が起きたほか、その後も誘拐事件が多発したそうです。

また、この映画で用いられた「走っている電車等から現金等を落とす」という手法は、

1965年の「新潟デザイナー誘拐殺人事件」
1984年の「グリコ・森永事件」
1993年の「甲府信金OL誘拐殺人事件」
2002年の「新城市会社役員誘拐殺人事件」
2004年の「大阪パチンコ店部長誘拐事件」

などでも摸倣されているそうです。

「山崎努の若い頃は「必殺仕置人」の「念仏の鉄」で人気!」に続く

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