「ヴェネツィア国際映画祭男優賞」を2度も受賞し、”世界のミフネ”と呼ばれた日本の映画スター、三船敏郎(みふね としろう)さん。
黒澤明監督の映画に数多く出演し、日本のみならず、世界中の映画人から引っ張りだことなりました。
三船敏郎のプロフィール
三船敏郎さんは、1920年4月1日生まれ、
中華民国山東省青島市のご出身です。
身長174センチ、
血液型はO型、
学歴は、
(中国の)大連中学卒業、
趣味は、車と船で、1952年型MG-TD、1962年型ロールスロイスシルバークラウド、オールドモービル、ジャガー、メルセデスベンツ、モーターホーム等多数所有。
特技は、
剣術、乗馬、射撃、
ちなみに、「三船敏郎」は本名です。
三船敏郎の父は写真業
三船敏郎さんが5歳の頃、一家が、中国・大連に移り住み、
お父さんがそこで、「スター写真館」を開業されるのですが、
そのことが、後の三船敏郎さんに、大きな影響を与えます。
というのも、三船敏郎さんは、20歳になり、兵役に就くのですが、
写真の知識と経験があることから、満州国・公主嶺の陸軍第七航空隊に配属されると、
そこでも写真の腕を見込まれ、航空写真を扱う、司令部偵察機の偵察員に。
さらに、頼まれて撮影した、上官の家族の写真の出来栄えが良かったことから、
教育隊に残るように命じられ、三船敏郎さんは、戦地に赴くことなく、生き残ることができたのだそうです。
ちなみに、先輩兵である大山年治さんからは、
俺はこの3月に満期除隊となるが、来年はお前の番だ、満期になったら砧の撮影所へ来い。撮影助手に使ってやる。
と、誘われたそうですが、
戦況が激しくなったことで、満期除隊はなくなってしまい、以降、三船敏郎さんは、敗戦まで、6年間兵役に就くことに。
戦争末期には、熊本の特攻基地隊に配属され、出撃前の隊員達の遺影を撮るという、辛い仕事に従事されたのでした。
三船敏郎はもともと写真家志望だった
そして、1945年、三船敏郎さんは、特攻基地で敗戦を迎えると、復員服のままで上京。
三船敏郎さんは、大山さんとの約束を頼りに、大山さんを訪ね、撮影助手を願い出ます。
しかし、なぜか、三船敏郎さんは、俳優の面接を受けることに・・・
これには、二つの説があり、
一つは、何かの手違いで、三船敏郎さんの志願書が、俳優志願の申込書の中に混ざってしまったという説。
もう一つは、本土復員に伴い、復帰社員が増加したことから、縁故採用が難しくなったことで、
大山さんから、
とりあえず、「第1回ニューフェイス募集」をしてるから受けてみろ、貴様の面なら合格するはずだ、入ってしまいさえすれば撮影助手に呼べるからな。
と、助言を受けたため、
不本意ながら、俳優志望として面接を受けたという説。
さておき、三船敏郎さんは、俳優の面接を受けられたのですが、
審査員から、
笑ってみてください
と、言われた際、
面白くもないのに笑えません
と、ふてぶてしい態度をとってしまい、その結果、不合格になったといいます。
三船敏郎と黒澤明の出会いは高峰秀子の紹介がきっかけだった
しかし、三船敏郎さんは、面接会場に居合わせた、女優の高峰秀子さんの目に止まり、高峰さんが、三船敏郎さんの存在を、映画監督の黒澤明さんに知らせると、
三船敏郎さんを見に駆けつけた黒澤明さんも、三船敏郎さんに対し、ただならぬ予感を感じられたそうで、三船敏郎さんは、「東宝第1期ニューフェイス」の補欠として採用されたのでした。
三船敏郎は「銀嶺の果て」映画デビュー
それでも、三船敏郎さんは、撮影部に所属することにこだわり、俳優になる気はなかったそうですが、
野性的な男を探していた、映画監督の谷口千吉さんに口説き落とされ、「銀嶺の果て」で映画デビューすると、
「銀嶺の果て」より。
三船敏郎さんは、この映画で、雪山で遭難する3人のうちのひとりを演じられるのですが、黒澤監督は、この映画を見て、三船敏郎さんの類まれなる才能を確信されたのでした。
三船敏郎は「醉いどれ天使」で一躍映画スターになっていた
そんな三船敏郎さんは、1948年、黒澤監督の映画「醉いどれ天使」で、破滅的な生き方をするヤクザ役を演じ、一躍スターになっているのですが、
「醉いどれ天使」より。志村喬さんと三船敏郎さん。
黒澤明さんは、三船敏郎さんについて、
彼は表現がスピーディなんですよ。
一を言うと十わかる。
珍しいほど監督の意図に反応する。
日本の俳優はおおむねスローだね。
こいつを生かしていこうと思ったね、あの時は。
と、語っておられます。
ちなみに、この映画は、大ヒットを記録し、ロングラン上映が決定すると、舞台化もされ、三船敏郎さんは、主演の志村喬さんとともに全国を巡られると、
その後も、
- 1949年「静かなる決闘」
「静かなる決闘」より。 - 1949年「野良犬」
- 1950年「醜聞(スキャンダル)」
- 1950年「羅生門」
「羅生門」より。
と、黒澤明さんの映画で、次々と主演を務め、
1951年には、「羅生門」が「ヴェネチア映画祭金獅子賞」を受賞し、”世界のミフネ”の起点となったのでした。
三船敏郎は黒澤明監督と共に世界に知れ渡り、”世界のミフネ”と呼ばれ世界中からオファーが殺到していた
また、
- 1954年「七人の侍」では、「ヴェネツィア国際映画祭銀獅子賞」「アカデミー美術賞・衣装デザイン賞ノミネート」
「七人の侍」より。 -
1961年「用心棒」では、「ヴェネツィア国際映画祭男優賞」「アカデミー衣装デザイン賞・作曲賞ノミネート」
「用心棒」より。 - 1965年「赤ひげ」では、「ヴェネツィア国際映画祭男優賞・サン・ジョルジョ賞」
「赤ひげ」より。
と、黒澤明さんとともに三船敏郎さんの名が、世界に知れ渡るようになると、三船敏郎さんのもとには世界中からオファーが。
三船敏郎さんは、日本映画の出演を優先し、ほとんどの依頼を断られていたのですが、
それでも、
- 1961年「価値ある男」(メキシコ)
- 1966年「グラン・プリ」(アメリカ)
「グラン・プリ」より。 - 1968年「太平洋の地獄」(アメリカ)
- 1971年「レッド・サン」(フランス・イタリア・スペイン)
- 1975年「太陽にかける橋 ペイパー・タイガー」(イギリス)
「レッド・サン」より。
などの海外作品に出演され、海外のスターと共演を果たされています。
以降、三船敏郎さんは、俳優業の傍ら、バラエティ番組の出演、映画プロデューサー、三船プロダクションの社長など、様々な分野で活動をされ、1997年、多臓器不全で他界されています。
三船敏郎の本妻は吉峰幸子
そんな三船敏郎さんの気になるプライベートなのですが、
三船敏郎さんは、1950年、「東宝第一期ニューフェイス」の同期だった、女優の吉峰幸子さんと結婚されています。
三船敏郎さんと吉峰幸子さん。
結婚生活は、当初は良好で、2人の息子さんを設けられたのですが、
1970年代に入ると、酒乱が原因で、三船敏郎さんが奥さんから家を追い出される形で別居。
ただ、奥さんは、自分から三船敏郎さんを追い出したものの、そんな行動とは裏腹に、三船敏郎さんとの関係修復を望まれていたと言われており、
三船敏郎さんの方から、数回に渡り、離婚を迫られてもこれを拒否。
奥さんは、最後まで、離婚に応じなかったそうです。
三船敏郎の内縁の妻は喜多川美佳
一方、三船敏郎さんは、奥さんとの離婚裁判中に、映画で共演された、女優の喜多川美佳(本名:大野照代)さんと交際。
当時の喜多川美佳さん。
1974年、アメリカのフォード大統領を迎賓館に招いた歓迎晩餐会では、喜多川美佳さんを妻として同伴し、出席されていたとか。
さらに、1982年に娘の美佳さんが誕生すると、喜多川さんと娘の美佳さんを連れて、マスコミの前に現れ、親子3人の写真を撮らせていたとも。
三船敏郎さんは、喜多川美佳さんを、公の場で、堂々と奥さんとして扱っていたようです。
三船敏郎の死因は?晩年は本妻・吉峰幸子に介護されていた
しかし、三船敏郎さんは、1990年頃から物忘れなどの症状が出始めると、1992年には、「心筋梗塞」を起こして倒れてしまい、その頃、喜多川美佳さんとの関係を解消し、一人暮らしを始めたといいます。
そして、そんな三船敏郎さんの看病を希望されたのは、本妻の幸子さんだったといいます。
以降、幸子さんは、体調のすぐれない三船敏郎さんを献身的に看護され、晩年の夫婦仲は円満だったそうですが、
(とはいえ、三船敏郎さんは認知症が進んでおり、幸子さんを「おばさん」と呼んでいたそうです)
1995年、幸子さんが先に他界。
その2年後の1997年12月24日21時28分、三船敏郎さんも、77歳で、全機能不全のため東京都三鷹市の杏林大学医学部付属病院で他界されたのでした。
三船敏郎さんの遺作となった1995年「深い河」より。
さて、いかがでしたでしょうか?
戦後、日本が産んだ映画スターとして、黒澤監督の映画に数多く出演し、世界を魅了した三船敏郎さん。
自ら世界に売り込み、活躍する日本人は数多くいますが、日本人としての姿勢を崩さず、むしろそれを買われて、海外の監督から数多くオファーを受けたのは、三船敏郎さんだけ。
時代背景もありますが、もう、三船敏郎さんのようなスーパースターは、二度と出てこないことでしょう。
是非、この機会に、三船敏郎さんの出演作品をご覧になってみては?