三船敏郎さんとの不倫交際関係が、三船敏郎さんが認知症になるまで、20年も続いたという、喜多川美佳(きたがわ みか)さんですが、

今回は、喜多川美佳さんと三船敏郎さんの馴れ初め、同棲後の関係、また、喜多川美佳さんが年老い、介護が必要になった三船敏郎さんを捨てたと言われている真相について調べてみました。

喜多川美佳

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喜多川美佳は三船敏郎が認知症になるまで不倫関係を続けていた

三船敏郎さんは、1950年、「東宝第一期ニューフェイス」の同期だった女優の吉峰幸子さんと結婚しているのですが、

1972年1月、幸子さんが自宅を出て実家に戻り、裁判所に離婚の調停を申請したことから、以降、5年間に渡り、泥沼の離婚裁判が続いたそうで、

その裁判期間中の1969年頃、喜多川美佳さんと三船敏郎さんは交際&同棲を始めたといいます。

その後、三船敏郎さんは、喜多川美佳さんとの再婚の意志を固め、幸子さんとの離婚に応じようとするのですが、

今度は、幸子さんが、離婚調停を取り下げて、三船敏郎さんとの関係修復を望み、

籍は抜かない。私は一生、三船敏郎の妻です

と、最後まで離婚に応じなかったことから、

喜多川美佳さんは、三船敏郎さんと籍を入れることなく、三船敏郎さんが認知症になるまで不倫関係を続けたのだそうです。

(幸子さんが家を出た原因は、三船敏郎さんの酒癖の悪さと女性問題だったそうです)

喜多川美佳と三船敏郎の馴れ初めは?

ちなみに、喜多川美佳さんは、「三船プロダクション」製作で黒澤明監督の映画「赤毛」に出演したことがきっかけで、三船敏郎さんと知り合ったそうですが、

喜多川美佳さんは、これが映画初出演の無名の新人女優だったそうで、

三船敏郎さんの側近の田中壽一さんは、

『赤毛』には女郎屋のシーンがあって、女郎が15人いるわけですよ。その中に、新人女優の北川美佳(のち喜多川)が混じっていた。この女郎役は(黒澤明)監督も私もセレクションせずに、助監督任せでした。

その助監督が一人くらい美人がいてもいいだろうということで、選んだのが北川美佳だったんです。彼女は自分の出演シーンだけじゃなく、いつもカメラの後ろにいて撮影を見ていた。スタッフは「あれは誰だ?」と注目したほどだった。

と、語っています。

喜多川美佳と三船敏郎がどのように交際に発展したかは誰も知らなかった

とはいえ、喜多川美佳さんは、美人ながら、役柄のせいで、衣装は汚れ、お化粧もきれいにしていた訳ではなかったそうで、

そんな中、なぜ、三船敏郎さんが、無名の女優だった喜多川美佳さんを気に入ったのかは不明だそうですが、

田中壽一さんは、三船敏郎さんは、喜多川美佳さんがいつもカメラの後ろにいて撮影を見ていたという、その熱心さに興味を持ったのでは、と考えているといいます。

ただ、どのような経緯で2人が交際するようになったのかは全く分からず、他の社員に聞いても誰も知らなかったといいます。

(三船敏郎さんは、撮影が終わると、女優さんたちを車に乗せて駅まで気軽に送っていくという習慣があったそうですが、その中に喜多川美佳さんがいたかどうかは分からないそうです)

また、「三船プロダクション」で演技事務の仕事をしていた中沢敏明さんによると、

西川善男専務から、

あの女優はどこの事務所だ

と、聞かれたことがあったそうで、

その後、2人は交際を始めたのでは、と思っているそうです。

喜多川美佳は三船敏郎の力添えで「新選組」で異例の大抜擢をされていた

その後、喜多川美佳さんは、三船敏郎さんの力添えで、「三船プロダクション」の次回作「新選組」(1969年)で、沖田総司役を演じた北大路欣也さんの恋人役に大抜擢されたそうで、

中村(後の萬屋)錦之助さん、小林桂樹さん、司葉子さん、池内淳子さんら大物俳優の名前が並ぶ中、喜多川美佳さんの名前がクレジットされるなど、無名の新人女優としては、通常ありえない待遇だったそうです。

(とはいえ、喜多川美佳さんは、演技経験が乏しく、現場で何度もNGを出していたそうです)

喜多川美佳は三船敏郎に映画「待ち伏せ」で再び重要な役どころに起用されていた

そんな喜多川美佳さんは、続く、「三船プロダクション」製作の映画「待ち伏せ」(1970年)でも、セリフの多い重要な役どころである、茶屋の娘役に起用されているのですが、

中沢敏明さんは、

2人の関係に気付いていたとしても、誰も社長を止められなかったでしょうね。酒を飲むと滅茶苦茶なところもあったけど、本当は真面目で実直な人なんだということを、みんなが知っていましたからね。

と、語っています。

(ただ、「赤毛」「待ち伏せ」ともに興行的には失敗に終わったそうです)

喜多川美佳は三船敏郎に公の場で妻として扱われていた

そして、その後も、喜多川美佳さんと三船敏郎さんの関係は続き、喜多川美佳さんは、1974年にアメリカのフォード大統領を迎賓館に招いた歓迎晩餐会では、妻として同伴されるほか、1982年9月には、娘の三船美佳さんを出産しています。

ちなみに、三船敏郎さんは、三船美佳さんが生まれて間もない頃、喜多川美佳さんと娘を連れてマスコミの前に姿を現し、3人の写真を撮らせたこともあったそうで、公の場で、喜多川美佳さんを妻として扱っていたといいます。

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喜多川美佳が三船敏郎を捨てたのではなかった

しかし、三船敏郎さんは、1990年、アラスカで映画「Shadow of the Wolf」(日本未公開)の撮影をしていた際、体調を崩し、物忘れなどの症状が出始めると、1992年には、喜多川美佳さんとの関係を解消し、一人暮らしを始めたそうで、

三船敏郎さんの長男・三船史郎さんは、その理由について、

父が海外の仕事で留守中、彼女(喜多川美佳さん)は父が大事にしていた三船家の位牌を処分してしまったんです。そのことを知った父は、ひどく怒り、彼女と大喧嘩をしたんです

と、語っています。

そして、その後は、三船史郎さん夫婦が三船敏郎さんの面倒を見ていたそうですが、別居していた妻・幸子さんが介護を希望したのだそうです。

(三船敏郎さんは、幸子さんとは21年ぶりの再会だったそうですが、認知症が進んでおり、幸子さんを「おばさん」と呼んでいたそうです。また、幸子さんが先に他界すると、ひどく落胆したといいます)

そんな中、マスコミは、愛人である喜多川美佳さんが、老いた三船敏郎さんを捨てたと書き立てたのですが、

(喜多川美佳さんが、三船敏郎さんの介護を拒否し、老人ホームに入所させたとも)

実際には、喜多川美佳さんが三船敏郎さんに関係を解消されていたようです。

また、三船敏郎さんの娘の三船美佳さんは、

亡くなったのは私が15歳の時だったけど、その前に体調を崩したりして、記憶が、まあ、お年的な病気だったりとかもして、私のことも認識できなくなったり、日常生活も結構大変になっちゃった時期があって、病院に行くようになったのが、私が10歳か11歳くらい

本人もしんどそうだったけど、母も最後まで守ったし、私たちなりの見守り方をしなきゃいけないっていうのもあった

と、語っています。

「喜多川美佳の娘は三船美佳!母娘で大阪に移住していた!」に続く

お読みいただきありがとうございました

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