1981年、16歳の時、オーディション番組「スター誕生!」で史上最高得点となる392点を獲得して芸能界入りすると、以降、次々とヒットを飛ばし、瞬く間にトップアイドルの座に駆け上がった、中森明菜(なかもり あきな)さんですが、人気絶頂の1989年、近藤真彦さん宅で自殺未遂を起こしてしまいます。
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近藤真彦宅で自殺未遂
中森さんは、人気絶頂だった1989年7月、当時、アイドル歌手だった近藤真彦さんの自宅マンションの浴室で、血を流してへたり込んでいるところを、帰宅した近藤さんに発見されます。
近藤さんによると、中森さんは、
ごめんなさい
と、泣きじゃくるばかりだったそうですが、
左ひじの内側を真一文字に切った傷は、血管や神経が切れる重傷で、手術は6時間も要したのでした。
金屏風の前で謝罪会見
当時、中森さんは、近藤さんと交際&同棲しており、結婚を意識し、マイホームの土地購入費用の8000万円を近藤さんに預けていたとも言われていたことから、そんな中での自殺未遂には、連日メディアの報道が続いたのですが、それでも、中森さんは公の場に姿を表すことはありませんでした。
しかし、同年12月31日、ついに、自殺未遂以来初めて公の場で会見を行います。
そして、会見には金屏風が用意されており、近藤さんも同席したことから、当初は2人の結婚会見かと思われたのですが・・・
中森さんは、自殺未遂騒動を謝罪、その後、今後の抱負を語るのみで、自殺未遂の理由やお二人の関係ついては、何ひとつ語らなかったのでした。
(ちなみに、お二人は会見の中で、終始お互いのことを、「信頼のおける数少ない友人」と表現されています。)
「金屏風会見」はジャニーズ事務所の圧力か
ところが、金屏風をバックにしたこの不自然な謝罪会見、実は、中森さんは近藤さんが所属するジャニーズ事務所から、
婚約会見だから
と、言われて会場に向かったそうで、会見場ではじめて、近藤さん同席の謝罪会見だと、知らされたというのです。
つまり、中森さんが当時所属していた「研音」は弱小の芸能事務所だったためか、この会見に関わることができず、すべてジャニーズ事務所側が取り仕切ることとなったのですが、
ジャニーズ事務所側は、近藤さんとの関係を諦めない中森さんを、「結婚報告」とうそをついて無理やり公の場に引きずり出し、金屏風の前で近藤さんとの仲に決着をつけさせたというのです。
また、中森さんは、この会見の3日前に「研音」から独立し、個人事務所を設立しているのですが、この独立に関しても、ジャニーズ事務所が中森さんになんらかの圧力をかけたのでは、と噂されています。
そして、中森さんと近藤さんに関する報道はこの後一切なく、お二人は破局。真実が明かされぬまま、中森さんは芸能活動を再開されたのでした。