もう二度と実家には戻らない、両親には会えない、という覚悟で実家を飛び出し、友人宅をあてにして神戸行きの汽車に乗り込んだ、西郷輝彦(さいごう てるひこ)さんですが・・・

「西郷輝彦は家出同然(高校中退)で鹿児島の実家を飛び出していた!」からの続き

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ヒッチハイクして神戸から大阪へ

西鹿児島駅から神戸行きの「高千穂」に乗り、24時間以上かかって神戸に到着した西郷さんは、やっとの思いで、あてにしていた友人宅(会社の寮)にたどり着いたのですが・・・

なんと、その友人は、すでに勤務先を辞めて、そこにはいなかったそうで、西郷さんは愕然。

(この友人をあてにしていたため、鹿児島を出る時には6千円ほどしか持っておらず、その6千円もほとんど汽車賃に消えてしまっていたそうです)

仕方なく、ヒッチハイクして神戸から大阪に行こうと、トラックを見つけては手を挙げていると、何台目かで、「乗れよ」と一台のトラックが止まってくれたのだそうです。

そして、運転手さんから、

おまえ、どこ行くんや、何しに行くんや

と、聞かれたことから、

(この時、西郷さんは、初めて大阪弁を耳にしたそうですが、その語感がとても心地よく感じられたそうです)

歌手になりに行くんですよ

と、答えると、

ホンマかいな、んじゃ歌うてみぃ

と、言われ、狭い車内で声を張り上げて、自慢気に歌ってみせたのですが・・・

運転手さんからは、

(その歌唱力で)大丈夫かいな

と、言われてしまったそうで、

それでも、西郷さんが、

大丈夫です。これから一生懸命に勉強してもっとうまくなります

と、答えると、

運転手さんは、

そうかぁ、そいじゃな、歌手になって有名になったらなんかごちそうしてくれや

と、言ったのだそうです。

(西郷さんは、デビューした後、この運転手さんをずいぶん探したそうですが、結局見つからなかったそうです)

歌手としては落選も俳優としてスカウトされる

そんなやりとりをしているうちに大阪に到着した西郷さんは、その後、「ナンバ一番」のコンテストで、自信の一曲だったボビー・ヴィーのヒット曲「ラヴァー・ボール」を一生懸命歌ったそうですが・・・残念ながら落選してしまいます。

(※「ナンバ一番」とは、当時、大阪・道頓堀の橋のたもとにあった有名な音楽喫茶(現在のライブハウス)で、毎夜ライブが行われ、大阪の音楽の発信基地だったそうです)

便所掃除が嫌で俳優の弟子入りを拒否

そんな西郷さんは、途方に暮れ、しばらく店の階段に座っていたそうですが、

審査員でテレビプロデューサーの酒多さんという人が、

キミは歌手なんかじゃなくって、役者の方が向いている。私に任せろ

と、東京・田園調布に住んでいた、ある俳優さんを紹介してくれ、汽車賃までくれたそうで、

西郷さんは、東京に向かい、その俳優さんの家で住み込みで働くことになったそうですが・・・

最初に言いつけられた仕事が便所掃除だったそうで、西郷さんは、便所掃除をして有名になるのだったら、ほかにもいろいろな方法があると思い、

ぼくは便所掃除するために鹿児島から出てきた訳ではないのです

大変申し訳ないのですが、これで失礼します

と、言い放ち、3日も経たないうちに、その家を出たのでした。

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俳優の道を歩んでいたかもしれなかった

ちなみに、西郷さんは、東京にいる間、酒多さんに言われて、浅草「マルベル堂」に写真を撮りに行ったそうですが、

酒多さんは、その写真を、「日活」のプロデュースだった水の江瀧子さんに渡して、

面白い子がいる

と、連絡してくれ、

鹿児島の両親にも、

私が盛揮君(西郷さんの本名)を引き受けました。東京のしっかりした俳優さんのところに送りましたから、ご安心ください

と、手紙を書いてくれていたそうで、

西郷さんは、このことをずいぶん後になってから知ったそうですが、その時には、西郷さんは、すでに大阪へ帰った後だったことから、結局、俳優として活動することはなく、

西郷さんは、著書「生き方下手」で、

ほんの少しのタイミングで、もしかしたらぼくは俳優の道を歩んでいたかもしれなかった。でも・・・もしぼくが俳優から芸能生活を始めていたら、一体、どうなっていたのだろうか。もちろん、「たら・れば」の話ではあるけれど

と、綴っておられます。

「西郷輝彦は下積時代に凄まじいイジメを受けていた!」に続く


生き方下手

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