「ナンバ一番」のコンテストで落選し、途方に暮れていた中、俳優としてスカウトされ、東京の俳優の家で住み込みで働くことになるも、便所掃除が嫌で、3日も経たないうちに飛び出したという、西郷輝彦(さいごう てるひこ)さんは、その後、ロックバンドのシンガー兼下働きとして働き始めたそうですが・・・

「西郷輝彦は昔歌手で落選し俳優としてスカウトされていた!」からの続き

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シンガー兼下働き時代には凄まじいイジメに遭っていた

便所掃除をして俳優になるくらいならと、西郷さんは、なんとか、シンガー兼下働き(楽器の運搬等なんでも屋)としてバンドにもぐり込み、「三井礼二」という芸名を名乗って、大阪、京都、名古屋のジャズ喫茶を回っていたそうですが、そこではひどいイジメに遭っていたそうで、

例えば、名古屋にいた時には、小屋のような寮に入っていたそうですが、冬、強い風が吹くと、ドアが開いてしまうような古い建物だったそうで、

ドアが開くたび、先輩から、

おい三井、ドア閉めてこい

と、言われ、

夜の間、ずっとそんなことが続いたことから、ついに寒さと疲れで耐えられなくなって、うとうとと眠ってしまうと、無言で身体を蹴飛ばされて起こされたこともあったそうです。

寝ている間に鼻の上に大便をつけられたことも

また、東京の某バンドでは、この時も疲れ果て、ようやく眠りについたかと思ったちょうどその時、なんとも言えない、すさまじい臭気で目が覚め、

先輩、なんか臭くないですか

と、聞くと、

おめえだろ、ちょっと鏡見て来い

と、言われたそうで、

鏡を見に行くと、なんと、鼻の上に、誰のものか分からない大便がつけられていたこともあったそうで、

西郷さんは、その時のことを振り返り、

そんな毎日だった。今だからこそのホンネを言えば、腹に据えかねたことも多かった。殴ってやろうかと思ったこともあった。けれど、じっと耐えた。

そんな毎日を過ごしていると、なにもかもがボンヤリとぼやけてくる。今まで描いてきた夢も自分の理想も、音を立てて崩れてきていた。

と、先行きの見えない苦しい生活が続いていたことを明かされています。

家族にはウソの手紙を送っていた

そんな中、追い打ちをかけるように、ジャズ喫茶の人気は下火になり、観客よりバンドメンバーの数のほうが多い毎日となっていったそうで、たまに来るお客はというと、風俗関係やラリっているような人たちばかりだったそうですが、

西郷さんは、鹿児島の実家には、

みんなに認められて明るい未来が開けています。もう少しでデビューできると思います。父さん、母さん、安心してください

といった、ウソばかりの手紙を送っていたそうです。

父親が誰もいない観客席に一人座っていた

しかし、そんなある日のこと、京都のジャズ喫茶「ベラミ」で、

先輩から、

三井、なんかおまえの知り合いが来ているようだよ

と言われ、客席をのぞくと、

ほかに誰もいない客席に、なんと、お父さんがポツンとたった一人で座っていたのだそうです。

西郷さんは、突然のことに驚きつつも、お父さんに近づいていくと、

お父さんは、絞り出すような、低く、それでいて、か細い声で、

お客さん・・・いないんだねぇ

と、言ったそうで、

西郷さんは、あわてて、

うん、そう、あの、今日はねぇ、あのね、こういう日でね、いつもはすごいんだよ、もうね、だぁーっと客が並んじゃったりもして

と、取り繕ったそうですが、

お父さんは、

そんな無理しなくていいよ。ここまで来ておまえが一生懸命やっている姿を見て、それで安心したよ。豊かではないみたいだけど、大きな夢があるんだろう。ここまで来たからには最後までやり遂げなさい

と、言ってくれたそうで、

西郷さんは、「ありがとう」と声を詰まらせながら言うのが精一杯だったそうですが、それと同時に、お父さんが、音楽を職業にしている自分を初めて認め、すべてを受け入れてくれたことが分かり、とても嬉しく思ったのでした。

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父親の想いを知って涙する

ちなみに、西郷さんは、随分と後になってから、お父さんに、

あの時、ポツンと客席に座っていた時、寂しかった?

と、聞いたことがあったそうですが、

お父さんは、

いや、そんなことはなかったよ。確かに薄暗い場所だし、入り口から地下に入っていくときは、盛揮はとんでもないところにいるんじゃないかって心配したけど。

ああ、ちゃんとバンドをやっているんだ、やりたい音楽をやっているんだ。素晴らしいことじゃないかと思ったよ

と、言ってくれたそうで、

西郷さんは、この時もやはり、涙が止まらなかったそうです。

「西郷輝彦は昔サンミュージックの相澤秀禎にスカウトされていた!」に続く

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