まだ無名の俳優だった1959年、22歳の時、すでに祖国ドイツで国民的人気女優だったロミー・シュナイダーさんと婚約すると、その後は、ルキノ・ヴィスコンティ監督が演出する舞台「あわれ彼女は娼婦」で共演するなど、公私ともに充実した日々を送っていた、アラン・ドロン(Alain Delon)さんですが、1963年、ドロンさんから切り出す形で破局。いったいお二人の間に何があったのでしょうか。
「アラン・ドロンは若い頃ロミー・シュナイダーと婚約していた!」からの続き
ロミー・シュナイダーとの破局理由は?
ドロンさんがなぜ、ロミーさんとの別離を選んだのか、はっきりとした理由は不明ですが、複数の説があるようです。
まず、1つ目は、ドロンさんが、またたく間にスターの階段を駆け上がっていき、ロミーさんもまた、ルキノ・ヴィスコンティ監督と組んだ映画「ボッカチオ’70」(1962)に主演するなど、確実に女優としてのキャリアを積み、お互い、忙しくなったことから、すれ違いが生じていったというのが理由で、
ドロンさんも、実際、後に、
俺たちはライバルになってしまった
と、語っています。
アラン・ドロンはロミー・シュナイダーの継父から嫌がらせを受けていた
そして、2つ目の説は、ロミーさんの継父(母親の再婚相手)であるブラッツハイムさんが、ことあるごとに、ドロンさんにケンカをふっかけるなど、嫌がらせを繰り返していたそうで、このことが原因だとも言われています。
ちなみに、ドロンさんは、同時期、ドイツ人モデルで歌手のニコさんと浮気をし、1962年には、ニコさんがドロンさんとの子供を生んでいることから、このことが破局の原因ではないかとも考えられていますが、
ドロンさんは、いまだにこの子供を認知していないので、ロミーさんとの破局の直接的な原因ではないと思われます。
アラン・ドロンがロミー・シュナイダーの葬儀を手配していた
ただ、ロミーさんは、1982年、43歳という若さで、「心不全」で急死。
その際、葬儀を手配したのは、ドロンさんだったそうです。
そして、ドロンさんは、騒ぎになるのを避けるため、葬儀には欠席せざるを得なかったことから、ロミーさんに向けてラブレターをしたためています。
(1961年に、ロミーさんと共演した、ルキノ・ヴィスコンティ監督が演出した舞台「あわれ彼女は娼婦」で、監督から言われたことを思い出しながら、)
ヴィスコンティは、僕らが似ていたのでキャスティングしたと言ったよね。僕たち二人には眉間にV字型のシワがあって、怒りや不安、恐怖を感じるとそれが顕著になっていた。
ヴィスコンティがこのシワを”レンブラントのV”と呼んでいたのを覚えているかい? なぜならば彼の自画像にも同じシワがあったんだ。でもロミー、君はもう眠ってしまい、”レンブラントのV”も消えてしまったんだね
アラン・ドロンとの別離後ロミー・シュナイダーは不運続きだった
ちなみに、ロミーさんは、ドロンさんとの別離後、フランスでトップ女優の地位を確立し、成功を収めるのですが、祖国ドイツでは、ドロンさんのもとへと走ったロミーさんのことを、家族を捨て、清純派女優というファンのイメージを裏切った、裏切り者扱いしていたそうで、それはロミーさんが亡くなるまで続いていたそうです。
また、 私生活も、2度の結婚と離婚、しかも、最初の夫は自殺、2人目の夫には財産を使い込まれたうえ、息子ダーヴィットさんを無残な事故で14歳で亡くし、さらには、年齢的な体力と美貌の衰えの不安から精神を病んでいき、そんな矢先の死だったそうで、
ドロンさんは、
人は、孤独の中に長く居すぎると、苦しみに襲われたり、時には死に至ったりもします。彼女は衰弱死しました。それが、彼女の病名です
と、語っています。
「アラン・ドロンと元妻ナタリー・ドロンは離婚後も良好な関係だった!」に続く