「エレックレコード」の看板スターだったフォークシンガーの吉田拓郎さんが「エレックレコード」を退社後、吉田さんの後釜として売り出され、1972年に発売したセカンドアルバム「春夏秋冬」が大ヒットした、泉谷しげる(いずみや しげる)さんですが、その後、吉田さんに誘われ、制作、営業、宣伝、販売などをアーティストが主導するレコード会社の設立に参加します。

「泉谷しげるがNHK紅白歌合戦で激怒し途中で帰った理由とは?」からの続き

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吉田拓郎らの「フォーライフ・レコード」設立に参加

1972年4月に発売したセカンドアルバム「春夏秋冬」が大ヒットし、一躍ブレイクした泉谷さんは、

その後も、

1972年11月「地球はお祭りさわぎ」
1973年9月「光と影」※(「サディスティック・ミカ・バンド」が参加)
1974年10月「黄金狂時代」

と、アルバムをリリースし、吉田拓郎さん退社後の看板スターとして、「エレックレコード」に在籍していたのですが、

1975年6月、27歳の時、その吉田さんに誘われ、小室等さん、井上陽水さん、後藤由多加さんとともに、「フォーライフ・レコード」の設立に参加し、移籍しています。

(小室さんが初代代表取締役社長、後藤さんが副社長、泉谷さん、井上さん、吉田さんが取締役に就任したそうです)

当時の音楽業界はアーティストの権限がほぼなかった

実は、「フォーライフ・レコード」は、もともと、吉田さんと小室さんの発案で設立された会社で、お二人は、大手レコード会社の意向が絶対だった時代、ビジネス優先の作品作りから、アーティスト主導による作品作り及び経営がしたいとの思いがあったのだそうです。

というのも、吉田さんは、この頃すでに、「CBSソニー」(現・ソニー・ミュージックエンタテインメント)内に個人レーベル「Odyssey」を持ち、アーティストとしての活動はもちろんのこと、プロデューサーとしての権限も持っていたのですが、

社員扱いで給料制だった「エレックレコード」から、「CBSソニー」に移籍した際、莫大な印税が振り込まれて驚き、以来、アーティストの権利について、考えるようになっていったそうで、

1974年、ボブ・ディランさんのコンサートを観るために渡米した際、アメリカの音楽事情を知ると、制作の先にある、営業、宣伝における全権をも握りたいと考えるようになったのだそうです。

(当時の日本の音楽業界では、レコード会社が大きな権限を持っていたため、自作自演が中心だったフォークシンガーでさえも、年3枚のアルバム契約の縛り、自身の意向にそぐわないシングル版のリリース、さらには、アーティストが売れなくなると容赦なく切り捨てられるといったことが当たり前に行われており、力関係において、アーティストは圧倒的に不利だったため、アーティストが曲の制作から広報、営業に至るまで強い権限を持つことはできなかったそうです)

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吉田拓郎と小室等が意気投合し新会社設立へ

そんな吉田さんが、このことを小室さんに提案すると、ちょうど小室さんも、所属していた「ベルウッド・レコード」のニューミュージック方面の販売促進力の弱さなどに不満を感じていたことから、吉田さんと意気投合。

こうして、お二人は、「契約される」立場だったアーティストが、主導権を持って「契約する」側となる、そんなアーティストが経営する会社設立を目指したそうで、

吉田さんは、当時のインタビューで、

今のレコード会社の年功序列的な組織の中では、プロデューサーとしては何もできない。俺たちの力では崩せない壁がある。

プロデューサーという価値観が会社の方でも解ってない。日本ではプロデューサーの評価が全然ない。ミュージシャンだけでなくそれに携わった全部の人が評価されるシステムを作りたい

と、語っています。

「泉谷しげるは「毒がある」という理由で吉田拓郎に誘われていた!」に続く

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