アルバイト先のスナックのマスターに勧められるまま、モデルになるべく上京するも、当初は、心細くて仕方なかったという、草刈正雄(くさかり まさお)さんですが、上京から半年後、大きな運が巡ってきます。
「草刈正雄は定時制高校に通いアルバイトで家計を支えていた!」からの続き
資生堂初の男性用化粧品「MG5」のCMに大抜擢
貧しい家計を支えるため、17歳で単身上京すると、ファッションモデルとして活動を始めた草刈さんですが、半年ほど経った頃(1970年、18歳の時)、「資生堂」が初めて発売する男性用化粧品「MG5」のCMに大抜擢。
すると、草刈さんの西洋人的なルックスがたちまち脚光を浴び、一躍、全国的にその名と顔を知られることになります。
CM「資生堂MG5」より。団時朗さん(左)と草刈さん(右)。
有名CMディレクターからの抜擢だった
実は、当時、「資生堂」が、団時朗さんの弟分に当たるモデルを探し、すでにオーディションは進んでいたそうですが、草刈さんが、とりあえずと顔見せに行ったところ、CMディレクターの杉山登志さんがカメラテストをしてくれたそうで、
(杉山さんは、「資生堂」のほとんど全てのCMを手掛けており、海外でも高く評価されていた、有名なCMディレクターだったため、多忙で、普段、会社にいることはなかったのですが、その日は、たまたまいたのだそうです)
それから10日後くらいして、杉山さんから、「お前に決まったぞ」と連絡があり、草刈さんが採用されたのだそうです。
(すでに団時朗さんの弟分は決まっていたにもかかわらず、杉山さんがそれをひっくり返し、草刈さんを起用したとの話もあるようです)
問い合わせが殺到し各方面から引っ張りだことなる
さておき、草刈さんのCMが全国で流れると、「あのCMに出ている人は誰?」と問い合わせが殺到。レコードを出してみないか、ドラマに出てみないかと、まだ無名の新人モデルだったにもかかわらず、草刈さんは引っ張りだことなったそうで、
草刈さんは、
「人気」というものを実感したのは、全国の資生堂さんの販売会社で僕のサイン会を行ったときでしょうね。自分の予想よりもはるかに大勢の女性たちが集まってくださっていたのを思い出します。
ともあれ、僕にとってはこのCMが全国放送だということが、とにかく嬉しかった。故郷の母に僕の活躍を見てもらって安心してもらえましたので。
と、語っています。
(それから2年後、草刈さんは、地元からお母さんを東京に呼び寄せたそうです)
女性モデルとの共演が苦手でよく怒られていた
そんな草刈さんは、「資生堂」の専属モデルとなり、「セブンティーン」のような女性向けの雑誌にも、モデルとして登場するのですが、
九州男児の草刈さんは、女性モデルと肩を組んだり手をつなぐといった、カメラマンが望むような動きが苦手で、緊張したり、照れたりと、とてもぎこちなかったため、カメラマンによく怒られ、事務所も、「あんな動けないモデル、現場に連れてくるんじゃない!」とよく怒られていたそうで、
草刈さんは、
よく「お前は女性にモテただろう?」って聞かれるけど、そもそも僕は、昔から人とのコミュニケーションがものすごく苦手なんですよ。
だから、ファッションモデルをやってた頃、カメラマンの方に、「(共演の)女性モデルの肩を抱け」とか、「手をつなげ」「キスしてみろ」って言われても、まったく動けなかった。当時、女性に対して免疫がなかったから。
と、語っています。
「草刈正雄が若い頃は「復活の日」「汚れた英雄」で人気絶頂に!」に続く