セカンドシングル「シーサイド・バウンド」がレコード売上40万枚を超える大ヒットを記録すると、その後も、「君だけに愛を」「銀河のロマンス/花の首飾り」「シー・シー・シー」と、出す曲、出す曲、大ヒットを連発し、当時流行していた「グループ・サウンズ」の中でも頂点を極めた「ザ・タイガース」。しかし、内情は、メンバーが不満を募らせており、人気を二分していた、沢田研二(さわだ けんじ)さんと加橋かつみさんが不仲になると、急速にバラバラになっていきます。

「沢田研二は昔タイガースでシーサイド・バウンドが大ヒットしていた!」からの続き

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次第にメンバーが不満を募らせていく

1967年5月、セカンドシングル「シーサイド・バウンド」が40万枚を売り上げる大ヒットを記録し、瞬く間にスターダムに駆け上った「ザ・タイガース」ですが、

自分たちの意見(「ビートルズ」等のロックを原点とする音楽志向)をまったく聞いてもらえず、アイドル性だけを前面に打ち出されたプロモーションや、個人の権利が尊重されず、ろくに寝る時間も取れない過密スケジュールで、事務所の利益のみのために働かされていることに、次第に不満を募らせていきます。

沢田研二と加橋かつみが不仲に

また、そんなメンバーの中でも、沢田さんは、

僕はもともと引っ込み思案で、自分から何かをするという質(たち)じゃないんです。いつも後手後手。今までの人生で、先手必勝ということは一度もありません。

みんなに引きずられて京都から大阪へ出て行ったら人気が出て、他のメンバーが「東京へ行く!日本一になる!」と言っているときに、僕だけは「大阪まで来られただけで御の字じゃないか」と思っていました。

それが上京してザ・タイガースとしてデビューしたら、メンバーの中で一番の人気者になってしまった。

と、後におっしゃっており、ほかのメンバーほど、音楽性にこだわりはなく、事務所の意向に添い、ただ、ひたすら忠実に仕事をこなされていたそうで、

やがて、沢田さんと人気を二分する、繊細で芸術家肌だった加橋かつみさんは、そんな沢田さんに反発心を抱き、二人はよくケンカをするようになっていきます。

特に、1968年1月27日には、「渋谷公会堂」の楽屋で、商業主義が進む中でも、ひたすらそれをこなし、プロに徹しようとする沢田さんと、時間と規則に縛られることに疑問を感じていた加橋さんが、(原因は不明ですが)激しい殴り合いのケンカ。

(それでも、ステージ上では、何事もなかったかのようにこなされるのですが、その夜、沢田さんは、「渡辺プロダクション」の副社長・渡辺美佐さんの自宅で号泣されたそうです)

以降、二人は、口を聞かなくなったそうで、ついに、1968年4月頃、加橋さんは、人気絶頂の中、「ザ・タイガース」を脱退したい意向を関係者に明かしたのでした。


当時の加橋かつみさん(左)と沢田さん(右)。

加橋かつみが失踪

すると、事務所は、沢田さんと人気を二分する加橋さんに脱退されてはたまらないと、加橋さんの意向を反映した「誕生、平和、友情、恋、祭、運命、兵士、母、死、英雄、人類の滅亡、再出発」をテーマとした、コンセプトアルバム「ヒューマン・ルネッサンス」を制作するのですが、


ヒューマン・ルネッサンス

その後も加橋さんの不満が払拭されることはなかったそうで、再三、脱退したい旨を事務所に伝えるも、なかなか了承してもらえなかったことから、

ついに、加橋さんは、1969年3月5日、渋谷のレッスン中にスタジオを離れたきり、グループに戻ることはなかったのでした。

加橋の失踪は「渡辺プロダクション」が仕組んだ脱退劇だった

そのため、加橋さんは、「失踪」と報道されたのですが・・・

実は、ほどなくして、加橋さんの「失踪」は、脱退したいとの加橋さんの意向を受けた「渡辺プロダクション」が仕組んだ脱退劇だったことが発覚し、「渡辺プロダクション」は謝罪会見を開きます。

というのも、「渡辺プロダクション」は、加橋さんの意向とはいえ、特に大きな理由もなく加橋さんを事実上解雇することによって、「ザ・タイガース」の人気が下降するのを恐れ、加橋さんが自発的に失踪したことにしていたのでした。

(この時、加橋さんと加橋さんのお母さんをホテルに拘束し、外部と連絡が取れないようにしていたそうです)

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瞳みのるも脱退を申し出る

ただ、この計画は、加橋さん以外のメンバーやスタッフにはまったく知らされないまま実行されたため、ほかのメンバーは困惑。

特に、加橋さんと京都時代からの友人で、苦楽をともにし、同じような思想を持っていた瞳みのるさんは大きなショックを受け、「渡辺プロダクション」と加橋さんに不信感を抱くようになっていきます。

そして、1969年夏には、「グループ・サウンズ」ブームが急速に終焉に向かい、同年秋頃からは、グループとしての活動よりも、メンバー個々の活動が中心になっていったことから、

瞳さんも事務所に脱退の意向を申し出られたのですが、加橋さん同様、脱退の了承は得られず、瞳さんも失踪を計画。

ただ、事前に発覚してしまい、岸部一徳さんの必死の説得で、渋々「ザ・タイガース」に戻られるのですが・・・

もはや、元の「ザ・タイガース」に戻ることができるはずもなく、「解散」は秒読みとなったのでした。

「沢田研二はタイガース解散後は岸部一徳に誘われPYGに加入していた!」に続く

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