1966年6月、内田裕也さんに声をかけられたことをきっかけに、「渡辺プロダクション」のオーディションに合格した、沢田研二(さわだ けんじ)さんたち「ファニーズ」のメンバーは、ついに、東京進出を目指して上京します。

「沢田研二らファニーズは内田裕也にスカウトされていた!」からの続き

Sponsored Link

新幹線を誤って「ひかり」ではなく「こだま」に乗る

ファンに見送られながら、東京を目指して京都発の新幹線に乗り込んだ、沢田さんたち「ファニーズ」のメンバーですが、速いはずの新幹線がなかなか名古屋に到着しなかったことから、おかしいと思った沢田さんが車掌に尋ねたところ、なんと、「これは、こだまです」との返事が。

どうやら、メンバーの一人が、「安いから」との理由で「こだま」のチケットを買ってしまっていたのでした。

(当時、新幹線の「こだま」は、速達タイプの「ひかり」に対し、始発駅から終着駅まですべての駅に停車する列車として運行していたのですが、4人は、新幹線に乗るのが生まれて初めてだったため、「こだま」も「ひかり」のように速達タイプの新幹線だと思っていたのだそうです。)

その後、沢田さんたちは、ようやく午後4時18分に東京駅に到着すると、「渡辺プロダクション」から、プロデューサーの池田道彦さんとマネージャーとなる中井國二さんが迎えに来てくれていたそうで、

沢田さんたちは、緊張するも、それを上回るほど、「東京へ来た」という喜びにあふれていたのでした。

「ファニーズ」から「ザ・タイガース」に改名

こうして、1966年11月9日、上京した「ファニーズ」は、その3日後の11月12日には、「日本グラモフォン」(後の「ポリドール・レコード」で、現在は「ユニバーサルミュージック」に併合)のオーディションを受け、見事合格すると、

11月15日には、音楽番組「ザ・ヒットパレード」に出演することが決まり、その際、「渡辺プロダクション」の制作部長から依頼を受けた、作曲家のすぎやまこういちさん(当時、「ザ・ヒットパレード」のプロデューサー)により、「ザ・タイガース」と新たに名づけられます。

(また、「渡辺プロ」からの指示により、バンドのリーダーも瞳みのるさんから岸部一徳さんに変更されています)

ちなみに、沢田さんによると、すぎやまさんから、

大阪から来たわけ?じゃ、タイガースだ(プロ野球の阪神タイガースにちなむ)

と言われ、グループ名を「ザ・タイガース」にされたのだそうです。

「シーサイド・バウンド」が大ヒット

そして、いよいよ、「ザ・タイガース」は、1967年2月、ファーストシングル「僕のマリー」でデビューを果たすのですが・・・人気はパッとせず。

(実は、前年1966年12月の録音の際から、デビュー曲「僕のマリー」を渡された沢田さんたちは、これまで自分たちが演奏してきた曲との違和感に失望していたそうです)


「僕のマリー」

それでも、内田裕也さんと「内田裕也とタイガース」を組み、同じく1966年12月から、新宿のジャズ喫茶「ACB」で、「ファニーズ」時代と同じテイストの曲(洋楽のコピー)の演奏を続け、

翌年の1967年1月15日、「第31回日劇ウェスタンカーニバル」で、内田さんと尾藤イサオさんのバックを引き受ける条件で、内田さんの用意した衣装を着て1曲だけ演奏されると、このことがきっかけとなり、ジャズ喫茶で次第に人気が上がり、同年3月頃には人気爆発。

5月に発売したセカンド・シングル「シーサイド・バウンド」は、いきなり、レコードセールス40万枚を超える大ヒットを記録したのでした。


「シーサイド・バウンド」

すると、その後も、1968年にリリースした、

「君だけに愛を」
「銀河のロマンス/花の首飾り」
「シー・シー・シー」

が立て続けに大ヒットを連発。「ザ・タイガース」は、瞬く間にスターの座へと駆け上ったのでした。

Sponsored Link

もう一人の「ザ・タイガース」

ところで、沢田さんたちが上京した際、東京駅で出迎えてくれた中井國二さんは、内田裕也さんから初めて「ファニーズ」の写真を見せられた時から、「ファニーズ」にプロの雰囲気を感じていたそうで、

オーディションの際には、「ファニーズ」の担当を願い出られたほか、世田谷区烏山町で3部屋ある一軒家を見つけてくると、3部屋のうちの一つを居間兼食堂兼楽器置場、もう一つを中井さんの荷物置き場、そして、残った部屋に二段ベッドを3つ運び込んで、5人のメンバーと寝起きを共にされていたそうです。

また、中井さんは、プロデューサーの池田道彦さんとともに、「ファニーズ」に対し、デビューにあたって、新宿「ACB」や池袋の「ドラム」などのジャズ喫茶で、毎日昼夜10回のステージを務めさせるなど、スパルタ的に指導されているのですが、

(当時のワンステージは、40分と決まっていたため、「ファニーズ」は1日400分もの演奏をしていたことになるのですが、その間中、休みなく、歌い、演奏し続けなければならなかったうえ、新宿と池袋を車で移動しながら、自分たちで楽器も運んでいたため、沢田さんたちは疲れ切っていたそうで、唯一休めるのは車の中だけだったそうです)

お酒を飲むと、

彼らの音楽に対する解釈は今までの人たちとぜんぜん違う、彼らの最初のファンは、「ビートルズ」「ローリングストーンズ」に夢中で、日本のバンドには目もくれなかった若い人たちです、音楽に対していつも冒険心を持っています。

と、熱く語っておられたそうで、「ザ・タイガース」の才能を見出し、それを磨き、開花させてくれた良き理解者だったそうです。

そして、その後も、

一日に四百分というのは、殺人的スケジュールです。でもプロになるにはそのくらいやらなければダメだった。僕自身も大変だった。

朝から夜遅くまでタイガースと一緒に行動し、彼らが千歳烏山にある合宿所へ帰ってから新宿へ出て池田さんと打ち合わせです。もちろん一杯やりながらですけど、よくあんなことができたと思いますよ。

と、メンバーの演奏、ステージ、生活など、仕事としてのマネージメントだけではなく、兄貴のような存在として、メンバーの面倒を見続け、活動を支えられたそうで、中井さんは、「もう一人のタイガース」と呼ばれたのだそうです。

(ただ、中井さんは、2011年8月、ガンのため他界されています)

「沢田研二のタイガース時代は加橋かつみと不仲だった!」に続く

Sponsored Link