フランス社交界で上々の生活をしていたデヴィ夫人さんは、その後、インドネシア帰国を経て、アメリカニューヨークに移住していたのですが、1996年、松田聖子さんに肩透かしを食らったことで毒舌を吐いたことが、プロデューサーの目に留まり、芸能ニュースの特番に出演すると、たちまち人気を博します。
「デヴィ夫人は昔アランドロンと?フランス社交界では東洋の真珠?」からの続き
スカルノ大統領から相続した遺産20億円で石油関連事業を興していた?
その美貌と知的な会話で、フランスでも上々の暮らしを10年あまり過ごしたというデヴィ夫人ですが、1980年、40歳の時には、インドネシアに帰国し、(本人いわく)石油関連事業を興して財を築くと、1991年には、アメリカのニューヨークへ移住したそうです。
(デヴィ夫人が、スカルノ大統領から相続した遺産は、日本円にして20億円と言われており、その遺産と、パリ時代のパトロン(経済的な後援者)の援助で、事業を興したと考えられています。)
そして、なんと、デヴィ夫人は、日本で芸能界デビューすることになるのです。
松田聖子のヌード写真集のコーディネーターを引き受けるも・・・
1991年にアメリカ・ニューヨークに移住していたデヴィ夫人は、その後、日本に帰国し、1996年、松田聖子さんのヌード写真集のコーディネーター役を引き受けたそうですが、トラブルがあったのか、結局、聖子さんはヌード写真集を出版せず、全米進出との理由でアメリカへ。
そこで、デヴィ夫人は、
あんな三流タレント
愛人と遊んでいた
などと、聖子さんのことをケチョンケチョンにこき下ろしたそうですが、それに目をつけた日本テレビのプロデューサーから、芸能ニュース(特番)の出演オファーが来たそうで、出演すると、しゃべること、しゃべること。このデヴィ夫人の毒舌ぶりは、予想以上に視聴者にウケ、高視聴率を記録したのでした。
サッチー批判でブレイク
そんなデヴィ夫人は、その後も、しばしば、ワイドショーに出演するようになり、1999年には、ミッチーこと浅香光代さんと、サッチーこと野村沙知代さんの確執から派生した、一連の批判合戦(「ミッチー・サッチー騒動」)でも、
下品で非常識な人はキライです
などと、歯に衣着せぬトークを炸裂すると、またもや高視聴率を記録。
浅香光代さん(左)と野村沙知代さん(右)。
デヴィ夫人は、芸能界でも、一躍、ブレイクを果たしたのでした。
(ちなみに、報道が野村沙知代さんに対するバッシングに傾くと、デヴィ夫人も野村沙知代さんを批判。その後、デヴィ夫人と野村沙知代さんは、テレビ番組で直接対決するまでに関係が悪化しました。)
デヴィ夫人はオファーは断らない?(ギャラは激安、過酷なロケでもOK)
その後、デヴィ夫人は、ワイドショーのコメンテーターだけではなく、タレントとしてもバラエティに引っ張りだことなっているですが、
意外にも、デヴィ夫人は、
オファーは断らない
というスタンスだそうで、そのため、仕事が途切れることはないのだとか。
実際、ギャラは激安、過酷なロケでもOKとのことで、テレビ局としては使い勝手がいいはずですね。
ただ、デヴィ夫人は、決して、お金のために体を張っている訳ではないそうで、若い頃にできなかったことができて、今のお仕事をとても楽しんでいるのだそうです。
「デヴィ夫人の元彼には津川雅彦や詐欺師も?公爵とも婚約していた!」に続く