1974年、「われら青春!」で主演に抜擢されてテレビドラマデビューすると、たちまちブレイクし、挿入歌「ふれあい」もミリオンセラーの大ヒットとなった、中村雅俊(なかむら まさとし)さんですが、大学時代からすでに音楽の才能を発揮していたといいます。
「中村雅俊が若い頃は「われら青春!」の「ふれあい」が大ヒット!」からの続き
高校生の時にギターを始めると大学時代には100曲以上作曲していた
1974年、「われら青春!」の主演でテレビドラマデビューし、挿入歌「ふれあい」で歌手デビューも果たすと、いきなり、ミリオンセラーを叩き出した中村さんですが、実は、中学・高校時代から「ビートルズ」やグループ・サウンズなどに夢中だったそうで、
高校生の時には、バスケットボール部の合宿で先輩に教わったことをきっかけにギターを始めると、大学時代には、毎日、日記代わりに作曲し、なんと、100曲以上もオリジナル曲を作るほか、臨時でバンドを組み、「中村の曲の発表会」というライブを数回やるなど、すでに、音楽活動をしていたのだそうです。
ジョニー野村&奈良橋陽子夫妻がブレーンだった
そして、大学3年生の時には、後に、「ゴダイゴ」のプロデュースをすることになる、ジョニー野村さんと知り合うと、中村さんの作曲したデモテープをレコード会社に売り込みに行きたいと言われたこともあったのだとか。
ただ、売り込んではもらったものの、残念ながら全部ボツになってしまったそうで、中村さんは、まさか、自分が歌手になれるとは思ってもいなかったのだそうです。
(ジョニー野村さんとは、中村さんが大学で英語劇をやっていた時の演出家・奈良橋陽子さんのご主人だったことから、その縁で知り合ったそうで、デビュー後は、ジョニーさん&奈良橋さん夫婦がブレーンとしてついてくれたそうです)
大学4年生の時には自主制作映画の主題歌も作っていた
また、大学4年生の時、「文学座」の研究生になってすぐの頃には、同期が参加した自主制作映画の主題歌を作ったこともあり、その映画は、役者の憧れである「紀伊国屋ホール」で2日間上映されたそうですが、それでも、やはり、歌手など遠い夢だと思っていたそうです。
(自分が作った曲が映画で流れたことに感動し、大きな達成感を感じたそうですが、ギャラは、エキストラ代と曲代合わせて、ビール1本とハンバーグライスだけだったそうです(笑))
それが、歌手デビューできたうえ、それがミリオンヒットにまでなったことから、はなからこんな状態は長く続かないだろうと、中村さんはどこかで思っていたそうで、
それまで貧乏大学生をしていたから、芝居をしたり歌えることだけで満足で。だから不安よりも楽しさのほうが勝っていましたね
と、語っています。
(中村さんがテレビドラマ「われら青春!」で演じた主人公の先生役は、中村さんで5代目だったそうですが、この「青春学園シリーズ」では、初代~4代目の先生役はみんなレコードを出していたことから、中村さんもその慣例に従い、言われるがままにレコードを出したそうで、歌手デビューは予想外で驚いたそうですが、このことがきっかけとなり、同年11月からコンサートツアーを始めるなど、音楽活動もするようになったのだそうです)
「中村雅俊は昔「俺たちの旅」「心の色」が大ヒットしていた!」に続く