少年時代は、落語家や歌謡ショーの司会者に憧れるも、高校2年生の時、東京六大学野球を観戦中、東京六大学野球新記録となる第8号ホームランを放った長嶋茂雄さんを観て、たちまち長嶋さんに魅了されたという、徳光和夫(とくみつ かずお)さんは、長嶋さんの足跡を追うべく、立教大学に入学すると、まずは、応援団に入部し、その後、放送研究会に転部したといいます。
「徳光和夫は高校生の時に長嶋茂雄に全てを捧げる決意をしていた!」からの続き
立教大学ではいつでもタダで神宮球場に入るため応援団に入部
高校2年生の時、東京六大学のホームラン記録を更新した長嶋茂雄さんに憧れ、人生の全てを長嶋茂雄に捧げようと決意すると、高校卒業後は、長嶋さんの足跡を追おうと、長嶋さんが在籍していた立教大学に入学したという徳光さんは、
(長嶋さんは徳光さんより5歳年上だったため、既に卒業していたそうですが)
まずは、長嶋さんがプレーしていた神宮球場にタダで入るにはどうすればよいか考えると、応援団が頭に浮かんだそうで、すぐに、応援団に入部したそうです。
(応援団になればいつでもタダで神宮球場に行けると考えたそうです)
応援団の活動中は試合を観ることが許されなかった
ただ、応援団は、せっかくタダで球場に入れるにもかかわらず、常にグランドに背を向けて、観客席の学生に「手拍子をしてください」「手の振りを合わせて」などの指示を出さなければならず、試合を見ることができないことに気づき、
(実際、応援団の先輩たちは(当然といえば当然なのですが)チラ見さえ許してくれなかったそうで、さらに、試合後には、観客席の学生たちが散らかしていったゴミを、団員である徳光さんがほうきで掃除しなければならなかったため、不満を感じつつも、それも団員の大切な役割だと自分に言い聞かせ、観客席の掃除をしていたのだそうです)
これでは、当初の目的だった「長嶋茂雄の足跡を追う」ことにはなっていないのではないかとの気持ちが拭えなかったそうで、
徳光さんは、後に、
試合を決める大事な場面で、去年まであの長嶋茂雄が守っていたホットコーナーの三塁に尻を向けた状態で立っている自分がいるわけですよ。そんなの許されますか。許されませんよ。
学生に指示している暇があったら、1分1秒でも長く3塁を見つめていたかった。去年まで、あの3塁上で長嶋茂雄が試合を決める一球を追っていたのに――。
と、語っています。
放送研究会に転部
そんなある日のこと、いつものように、神宮球場で試合終了後に観客席の片づけをしていると、目の端に、ある一団がスタンド最前列でテープレコーダーを持って取材等をしている姿が映ったことから、
そういえば、彼らも応援団と同様、毎試合、神宮球場にいるなと思い、友人に聞いてみると、その一団は放送研究会だと教えてもらったそうで、
(当時は、その放送研究会が立教大学の試合を毎試合、応援席の最前列に陣取って録音中継をし、学食などで流していたそうです)
応援団は試合中は後ろを向いていなければならないのに、逆に放送研究会は応援席の一番前で選手たちがプレーする姿を観ることができるなんて、どう考えても放送研究会のほう楽しいに決まっていると、徳光さんは、すぐに、放送研究会に転部したのだそうです。
一般的には辞めにくい応援団を簡単に退部することができていた
ちなみに、当時、一般的には、応援団を辞めるということは一大事だったそうで、辞めようとしても部内の規律が厳しく、なかなか辞めさせてもらえないばかりか、辞めると言えば、(正直なところ)先輩たちからボコボコにされることもあったそうですが、
立教大学はキリスト教的な校風から、徳光さんが、
試合の実況に興味があります、なので放送研究会に入部したいです、よって応援団を辞めさせてください
と、申し出ると、わりと簡単に辞めさせてくれたそうです。
「徳光和夫が若い頃は超難関を突破し日本テレビに入社していた!」に続く