長嶋茂雄さんの足跡をたどるべく、立教大学に入学し、長嶋さんがプレーしていた神宮球場に入りたい一心で応援団に入部すると、やがては、観客席の一番前で選手たちがプレーする姿を観ることができる放送研究会に転部したという、徳光和夫(とくみつ かずお)さんは、大学卒業後は「日本テレビ」に入社し、ついに、長嶋茂雄さんと初対面を果たしたといいます。
「徳光和夫は立教大では応援団入部もやがて放送研究会に転部していた!」からの続き
同期の土居まさるに勧められ日本テレビの入社試験を受けると見事合格
こうして、すんなり、応援団から放送研究会に転部できた徳光さんは、この頃は、アナウンサーの実況の真似事をしているだけで満足していたことから、特に、アナウンサーになりたいと思っていた訳ではなかったそうですが、
大学4年生のとき、就職に悩み、同期の土居まさるさん(後のフリーアナウンサー)に相談すると、
お前さ、そんなに長嶋さん、長嶋さんと言うんなら、いっそのことテレビ局のアナウンサーになって、本物の長嶋茂雄さんと一緒に仕事をすればいいじゃないか
と、言われたことから、
この言葉に背中を押される形で、1963年、「日本テレビ」の入社試験を受けると、見事、難関を突破し、「日本テレビ」の入社試験に合格したそうです。
最終面接以降は映画部長だった父親のコネも作用していた?
ちなみに、後から分かった話だそうですが、「日本テレビ」の入社試験では、徳光さんを含め5人が最終選考に残っていたそうですが、そのうち3人は「日本テレビ」は記念受験していたようで、超優良企業に内定が決まったことから辞退したそうですが、
残り1人はバリバリの学生運動家だったそうで、ちょうどその頃、「日本テレビ」は労働組合が出来たばかりだったことから、もし労働組合に入って組合運動にばかり力を注いでアナウンサーどころじゃなくなったら困るとのことで、
残り1人の、どうみても政治運動に関心が無いノンポリ(nonpolitical(ノンポリティカル)の略)と見られた徳光さんが(実は徳光さんも学生運動に熱中していたのですが)、「日本テレビ」の映画部長の息子だったこともあり、合格したのだそうです。
(お父さんには、最終面接に残った後に、「日本テレビ」を受験したことを話したそうで、最終面接までは自力で残ったそうです)
アナウンス部の上司・越智正典に野球の実況を担当したいと願い出ていた
さておき、こうして、「日本テレビ」に入社した徳光さんは、憧れの長島茂雄さんを中継したいという一心で、アナウンス部の上司・越智正典さんに、
長嶋茂雄さんのあの熱きプレーのすべてを的確に自分の口でしゃべれるようなアナウンサーになりたいです、頑張ります
と、自分の思いと、野球の実況を担当したいということを伝えたそうですが、越智さんは、「ああ、そうですか」とそっけない返事だったそうです。
(越智さんは、当時、NHKから民放に来た、野球実況中継の草分け的存在だったそうで、徳光さんにとっては、雲の上の存在だったそうですが、残念ながら、人事権は持っていなかったそうです)
長嶋茂雄と念願の初対面を果たす
ただ、越智さんは、新人だった徳光さんに気を遣ってくれるような優しい人だったそうで、なんと、長嶋さんに引き合わせてくれたこともあったそうです。
それは、越智さんが司会する野球教室の番組に、徳光さんが研修の一環として参加していた時のこと、越智さんは、たまたまゲスト出演していた長嶋さんを、「茂雄ちゃん」と呼んで、
この新人は立教大学出身で、なんでも長嶋茂雄に憧れて立教に入り、うちに入社したんですよ
と、長嶋さんに紹介してくれたそうで、
(そんなふうに簡単に長嶋さんを呼べる越智さんは、長嶋さんが尊敬していたアナウンサーでもあったそうです)
後に、徳光さんは、
いやもう、なんかもう、東北の民謡歌手のような甲高い声で『そうなの、よかったね、頑張れよ』と言ってくれてねえ。あのときの甲高いトーンがいまだに私の体の中に染み込んでいますよ。もちろん、そう言われて、よし、頑張ろう!と思いました
神の声ですから、私にとっては。その神様から声をかけてもらうというのは、なんだろうな、とんでもないことだったです
と、長嶋さんに初めて会った時のことを語っています。
「徳光和夫が若い頃は朝の通勤電車で実況中継の練習をしていた!」に続く