「戦場のメリークリスマス」を製作するにあたり、イギリス側が負担する製作費の調達を断念せざるを得なくなった、大島渚(おおしま なぎさ)さんは、ニュージーランドのタックス・シェルター制度を利用したといいます。
「大島渚は「戦場のメリークリスマス」で英国での資金調達を断念していた!」からの続き
「戦場のメリークリスマス」の撮影地をオーストラリアかニュージーランドで迷っていた
イギリスでの資金調達を断念せざるを得ず、もはや、「戦場のメリークリスマス」は製作中止かと思われた中、エグゼクティヴ・プロデューサーのテリー・グリンウッドさんとプロデューサーのジェレミー・トーマスさんから、オーストラリアかニュージーランドの「タックス・シェルター」という制度を利用してはどうかと提案されると、その後、幸いにも、オーストラリアとニュージーランド両国から出資者が現れたそうですが、
オーストラリアは、間にブローカーが入る等の問題があり、ニュージーランドは、怪しさはなかったものの、大島さんは、当時、ニュージーランドという国をよく知らず、極寒の地ではないかとの心配があったそうで、いずれにするか判断に迷ったそうです。
(映画の舞台がジャワという暑い国のため、極寒の地では内容に合わないことから)
ニュージーランドで「戦場のメリークリスマス」の撮影を行うことが決定
ただ、ニュージーランドは、温暖な気候で、オークランド市にはイギリスのような町並みがあるほか、ラロトンガ島にはジャングルもあり、収容所のシーンが撮れそうだとの情報を得たことから、急遽、美術監督の戸田重昌さんがロケハンに向かうと、
現地を視察した戸田さんからは、「やれないことはない」という報告を得たことから、大島さんは、ニュージーランドで撮影することを決断したそうで、1982年5月には、ニュージーランドの「タックス・シェルター」を利用して、「戦場のメリークリスマス」を撮影することが正式に決定したのだそうです。
(戸田さんは、「白昼の通り魔」以来、大島監督映画の美術を担っていたのですが、限られた予算の中で最高のアプローチを行い、セットを組む余裕がない映画でも、最小限の工夫で豊かな風景を作り出すことができる腕前を持っていたそうで、大島さんは、そんな戸田さんに絶対的な信頼を置いていたことから、企画を検討する時には必ず戸田さんの意見を重視していたそうで、今回の「戦場のメリークリスマス」も、原作を読んだ戸田さんのお墨付きを得たことで映画化を進めたのだそうです)
最後はオランダの金融業者の出資によりなんとか資金調達の問題が解決していた
とはいえ、製作費は、最終的には630万ドル(当時の相場で日本円にして15~16億円)に達したそうで、ニュージーランドの「タックス・シェルター」を利用しても、海外からの資金調達はまだ100万ドル不足していたそうで、
そのため、撮影準備が始まっても、ギリギリまで、クランクインできるかどうかという危うい状況だったそうですが、後にオランダの金融業者が出資してくれることになり、なんとか、資金の問題は無事解決したのだそうです。
(その金融業者は他のプロデューサーよりも高い報酬を要求したそうですが、その人のお陰で撮影中止にならずに済んだそうで、その人の名前は、エグゼクティブ・プロデューサーとしてクレジットされているそうです)
ちなみに、そんないつ中止になってもおかしくない状況の中、美術監督の戸田重昌さんは、先行して、6月にニュージーランドのラロトンガ島へ渡り、収容所のセット建設を始めていたそうで、
エグゼクティブ・プロデューサーの一人だった原正人さんは、そんな戸田さんに、いつ中止を伝えるべきか迷い続けていたそうです。
(それほど事態は切迫していたそうです)
「大島渚の「戦メリ」には緒形拳と滝田栄が出演予定だった!沢田研二も?」に続く