作詞した、水原弘さんのデビュー曲「黒い花びら」が、一旦はお蔵入りしていた状況から、一転、ミリオンセラーとなった、永六輔(えい ろくすけ)さんですが、その陰では、作曲をした中村八大さんの尽力があったといいます。
「永六輔が作詞した「黒い花びら」は「ネリカンブルース」のせいでお蔵入りになっていた!」からの続き
中村八大が「黒い花びら」をA面で発売するよう「東芝レコード」に直談判していた
山下敬二郎さんが歌うA面の「ネリカン・ブルース」が発売中止となったことで、B面に収録されていた水原弘さんのデビュー曲となるはずだった「黒い花びら」も発売中止となり、水原さんのデビューも白紙となってしまったのですが、
「黒い花びら」を作曲し、作品に大いに自信を持っていた中村八大さんが、納得がいかず、発売元の「東芝レコード」に出向き、制作と宣伝の責任者だった石坂範一郎さんに直談判すると、
石坂さんは、「黒い花びら」をA面とした水原さんのシングル盤をリリースすることを了承してくれたそうで、それから1ヶ月後、「黒い花びら」はA面としてリリースされ、水原さんは無事デビューすることができたのだそうです。
「黒い花びら」は斬新すぎてヒットを予想されていなかった
ちなみに、この「黒い花びら」は、「ビクター」のディレクターだった長田幸治さんから、
没にするのは惜しい。フランク永井なら10万枚は行く
と、言われていたこともあり、
中村さんは自信を持って、「東芝レコード」の石坂さんに直談判したそうですが、当初、「東芝レコード」のスタッフたちは、誰もが、「変な歌だなぁ」と口を揃えて言っていたそうです。
というのも、この「黒い花びら」は、これまでの日本の歌謡曲にはなかった3連符を重ねたロックバラードだったことから、斬新過ぎ、音楽業界のプロには理解できなかったそうですが、
いざリリースすると、すぐに若者を中心に支持を集め、人気に火がつき、大ヒットとなったのだそうです。
(「東芝レコード」は、水原さんが無名の新人だったことや、映画「青春を賭けろ」とのタイアップの時期を逃したことなどから、ヒットを予想しておらず、初盤プレスはわずか2000枚程度だったそうですが、その予想を反して大ヒットを記録したことから、その後、増産を重ねたのだそうです)
「日本レコード大賞」のため中村八大は急遽「日本作曲家協会」に所属させられていた
また、この「黒い花びら」は、1959年末の「第1回日本レコード大賞」を受賞しているのですが、ノミネートされた際、作曲をした中村八大さんは、フリーランスだったため、当初のノミネートの基準だった「日本作曲家協会所属の作曲家によるものでなくてはならない」との基準を満たしていなかったそうで、
審査員は、急遽、中村さんを「日本作曲家協会」に加盟させて、なんとか体裁を取り繕い、無事、「黒い花びら」は、「第1回日本レコード大賞」を受賞することができたのだそうです。
「永六輔が作詞した「上を向いて歩こう」が「SUKIYAKI」となった理由とは?」に続く
「第1回日本レコード大賞」授賞式より。(左から)中村八大さん、水原弘さん、永さん。