1964年にバンド「碇矢長一とザ・ドリフターズ」に加入すると、1969年には、「ザ・ドリフターズ」主演のバラエティ番組「8時だョ!全員集合」で一躍、子供たちに人気を博し、以降、ミュージシャン、俳優、タレントとして、幅広い分野で活躍してきた、高木ブー(たかぎ ぶー)さん。今回は、そんな高木さんの生い立ちをご紹介します。
幼少期は裕福な家庭で何不自由なく育つ
高木さんは、「金門商会」という水道やガスのメーターを作る会社に勤めるお父さんのもと、6人兄弟(兄3人、姉2人)の末っ子として、東京の巣鴨で誕生すると、塀で囲われた敷地の中に7軒並んで建てられた木造平屋建ての社宅(庭には立派な松の木と鯉がいる池があったそうです)で、何不自由なく育ったそうで、
子供の頃は、当時はまだ珍しかったレコードプレイヤーやジャズのレコードが家にあり、小学生の時には、訳も分からないまま、時々、ジャズを聴くなど、音楽が身近な環境で育ったそうです。
(学校で習う音楽は唱歌、ラジオから流れてくるのは軍歌や浪花節がほとんどだったため、高木さんにとって、ジャズのメロディは、とても新鮮で刺激的だったそうで、身体が自然に動き出すようなウキウキした気持ちになったそうです)
兄弟とは年齢が離れていた
また、高木さんは、一番上のお兄さん(長男)とは19歳離れ、その次のお姉さん(長女)とも18歳、すぐ上の3番目のお兄さん(三男)でさえ8歳も年が離れていたことから、家族みんなからとてもかわいがられて育ったそうですが、
(18歳年上のお姉さんは、すでにお嫁に行っていて家にはいなかったそうです)
その分、兄弟と一緒に遊んだ記憶はなく、両親と過ごすことが多かったそうです。
(すぐ上の3番目のお兄さんはベーゴマが強く、幼い高木さんは、お兄さんが山手線にかかる江戸橋の欄干のコンクリートでベーゴマをするのを見ていたそうですが、一緒に遊ぶというのではなかったそうです)
幼少期から父親と毎晩晩酌をしていた?
そんな高木さんは、4~5歳の時には、お父さんが夕方に会社から帰って来くると、お母さんが、お父さんの二合徳利と、高木さん用にもう1本、水を入れた徳利とおちょこを用意してくれたそうで、
お父さんに、
友、まあ一杯いけ
と、言われ、おちょこに徳利の水を注いでもらうと、
高木さんも、見様見真似でお父さんのおちょこにお酒を注いだりして、毎晩、差し向かいで晩酌(ごっこ)をしたそうです。
(お父さんとは何を話すわけでもなかったそうですが、この晩酌はとても楽しかったそうです)
父親に一度だけひどく怒られたことがあった
こうして、普段は、高木さんに甘く、優しいお父さんでしたが、一度だけひどく怒られたことがあったといいます。
それは、高木さんが小学校に上がる前のこと、近所の友達から、「マヌケ~」という言葉を教わったことから、家に帰り、(何も考えずに)さっそく、お父さんに向かって「マヌケ~」と言ったところ、いつもは優しいお父さんの顔がみるみるうちに怖い顔になり、
謝れ、友之助!
と、言われたそうで、
それでも、高木さんが謝らずに黙ったまま固まっていると、
(高木さんは、意地を張っていたわけではなかったそうですが、何がいけなかったか分からなかったそうです)
いきなり、お父さんに平手打ちされたのだそうです。
これに、高木さんは、びっくりして大声で泣いたそうですが、お父さんは、そんな高木さんを抱きしめてくれたそうで、その時、ようやく、自分はひどいことを言ったのだと気がついたのだそうです。
(お父さんに叩かれたのは、この時が最初で最後だったそうです)
「高木ブーの幼少期は両親にとても可愛がられて育っていた!」に続く