終戦後、数々の忘れられない出来事を経験したという、財津一郎(ざいつ いちろう)さんは、小学校の校庭で不発弾が爆発して子供がバラバラに吹き飛ばされるのを目撃するほか、病気の母親のためにやっとの思いで手に入れた食べ物を悪ガキたちに泥だらけにされるなど、辛い思いをしたといいます。
「財津一郎は進駐軍に圧倒されるも警官に日本人のプライドを感じていた!」からの続き
不発弾が爆発して子供がバラバラに吹き飛ばされるのを目撃する
終戦後、しばらく休校が続いたことで、財津さんは、学校が恋しくなり、ある日、通っていた熊本師範学校男子部附属国民学校(現・熊本大附属小学校)の運動場の砂場で遊んでいたそうですが、
突然、ドカーンという大きな音がしたそうで、振り向くと、運動場の隅にあった相撲の土俵から大きな火柱が上がっていたのだそうです。
そこで、財津さんたちは、まっしぐらにその火柱の方に走って行ったそうですが、遠くから、学校の用務員さんが財津さんたちの方を向いて、来るなと叫んだことから、立ち止まったそうですが、
辺りを見回すと、バラバラに吹き飛ばされた子供たちの遺体と、それらの遺体に用務員さんがむしろをかけているのが見えたそうで、
財津さんは、この時のことを、著書「聞いてチョウダイ 根アカ人生」で、
ただ、私たちと同じように、学校で遊んでいただけなのに。そんなことってあるでしょうか。戦争が残したものは、あまりにも残酷でした。
と、綴っています。
(吹き飛ばされた子供たちは、土俵に積まれていた不発弾の信管を棒でいじって遊んでいたそうで、戦争が終わった後も、不発弾は街のあちこちに残っており、このような犠牲者がたくさん出たそうです)
母親が「かっけ」になり、食べ物をもらうため農家を回っていた
そんな中、財津家も、極貧生活がたたり、お母さんが、極度の栄養不足と疲労から、「脚気(かっけ)」になってしまったそうで、
財津さんは、
このままじゃ、かあちゃんが死んでしまう
と、子供用のセーターなどの衣類を持ち出して、家から少し離れたところにある農村地帯に行き、農家を1軒1軒訪ねて回り、
母がかっけで倒れました。食べるもんなかとです。これと交換してください
と、手に持っていた衣類を差し出したそうですが、ほとんどの農家から断られてしまったそうです。
袋いっぱいの大豆をもらうも悪ガキたちに絡まれる
ただ、ある農家が袋いっぱいの大豆をくれたそうで、財津さんは、喜び勇んで帰り道を急いでいたそうですが・・・
突然、目の前に、20人以上の悪ガキが現れ、
なんしに来たつか。食べ物ばあさりに来たつや
と、言われ、にらみつけられたそうで、
財津さんが黙っていると、リーダーらしき悪ガキが、財津さんの頭を木刀で、こつん、こつんとつつき出したそうです。
それでも、財津さんは、何も言わず、黙ってされるがままに耐えていると、数分ほど経った頃、木刀が大豆を入れていた袋に当たって大豆がザーッとこぼれ落ち、馬車道の泥に大豆が埋まってしまったのだそうです。
泥まみれになった大豆を見て涙が止まらなかった
すると、さすがの財津さんも、もう食べることのできなくなった大豆を見ているうちに、フツフツと怒りが湧いてきたそうで、
財津さんのあだ名は「火だるま」だったそうですが、まさにその名の通り、「このやろ~」と、リーダーが持っていた木刀を取り上げ、わーわーと叫びながら地面を叩くと、その迫力に、悪ガキたちは驚いて逃げていったそうで、ふと我に返ると、周りには誰もいなくなっていたのだそうです。
(ただ、どんなにキレても、木刀で人を叩いたりはしなかったそうです)
そして、泥まみれになった大豆を拾い集めて袋に入れ、歩き出したそうですが、お母さんに食べさせたかったと思うと、涙がボロボロとこぼれ落ちたのだそうです。