「日劇」では、鬱々(うつうつ)とした気持ちで舞台進行係の仕事をしていた中、たまらず、歌手の藤山一郎さんの舞台に端役で出演させてもらうも、観客には全くウケず、失敗に終わったという、森繁久彌(もりしげ ひさや)さんは、その後、「東宝新劇団」に入れてもらうチャンスを掴むのですが・・・またしても、いつものクセが出て、左遷させられたといいます。
「森繁久彌は若い頃「日劇」で痴漢退治をさせられていた!」からの続き
「東宝新劇団」に入団するもすぐに「東宝歌舞伎」に左遷される
「東宝新劇団」に入れてもらった森繁さんは、ついに、「日劇」の舞台「細君 三日天下」(中野実作)で、本当の初舞台を踏むことになったそうですが、
台本の読み合わせの日、森繁さんは、(黙って控えていればいいものを、つい)大作家をバカにしたような質問をしたそうで、中野さんの機嫌をそこねてしまい、いきなり、「東宝歌舞伎」に左遷されてしまったそうです。
「東宝歌舞伎」の社長・小林一三のやり方に反発を覚えていた
すると、「東宝歌舞伎」の社長の小林一三さんは、安くて楽しめる「阪急食堂」なみの舞伎を作ろうとしていたそうで、
森繁さんが、初めて「東宝歌舞伎」に行った日には、舞台「宮本武蔵」(吉川英治作)の第1回目で、市川寿美蔵さんや坂東蓑助さんなど、意欲的な歌舞伎役者達が揃っていたそうですが、(歌舞伎にもかかわらず)新劇の大家・村山知義さんが招かれ演出していたそうで、
仙台平(せんだいひら)や紋付などシャナリシャナリとした着物を着流す歌舞伎の女形(おんながた)が、いきなり、村山さんに「もっと性格をつかんで下さい」と叱られ、戸惑っているの見て、森繁さんは、反発を覚えたそうです。
(着物の展覧会のように数十人の歌舞伎役者が群れる稽古場の片隅に、森繁さんはじめ、加藤嘉さん、山形勲さん、沢村雄之助さんなどの役者が背広姿で並んでいたそうです)
「東宝歌舞伎」の団員になるためには家庭が裕福であることが絶対条件だった
また、「東宝歌舞伎」の団員になるためには、「家庭裕福ならざるものは、入団の資格なし」という規定があったそうで、(「宝塚少女歌劇」の入団資格同様に)容姿や素質よりも、まず、「家庭」が一番大事ということにも、森繁さんは反発を覚えたそうで、
(森繁さんたち背広を着た役者仲間も、芳澤謙吉外務大臣の息子、平塚台湾総督の息子など、名だたる親を持った者ばかりだったそうで、社長の小林一三さんは、安いお給料でもやっていける生活能力を持っていた者を選んでいたそうです)
「東宝歌舞伎」には、後に、「松竹」の女優として大成する三宅邦子さんもいたそうですが(三宅さんの実家は老舗の料亭だったそうです)、三宅さんが、小道具の提灯を忘れてしまい、持ったつもりの格好(つまりエアー)で舞台に出演すると、
「神経を疑う」と言われ、このことが原因で三宅さんはクビになってしまったそうで、森繁さんいわく、小林さんには、才能ある者を見る目もなかったのだそうです。
「森繁久彌が若い頃は「東宝歌舞伎」で”馬の脚”の役をやらされていた!」に続く