おばあちゃんから、生きるうえで大切なことを教えてもらったという、田原総一朗(たはら そういちろう)さんですが、今回は、そんな田原さんの生い立ちと、子供の目から見た両親についてご紹介します。
「田原総一朗は祖母から生き方について様々なことを教わっていた!」からの続き
幼少期は裕福な家庭で育つ
田原さんは、お父さん・英次郎さんとお母さん・登志江さんのもと、4人兄弟(弟2人妹1人)の長男として、彦根城の城下町(彦根城から1.5キロ南に下った滋賀県彦根市元岡町)で誕生すると、幼い頃は、お手伝いさんが一緒に暮らす2階建ての母屋と、2階建ての離れのある大きな家で、何不自由なく育ったそうで、
(広い庭には、池と灯籠のあるちょっとした築山があり、母屋には、生糸の取引先の外国人が訪ねて来た時のためにと、ハイカラなガラスのテーブルと籐の椅子がおいてあったそうです)
お正月には、親戚や商売の関係者たちが大勢やって来ては、にぎやかに過ごすほか、庭で餅つきをし、ついた餅を近所に配るなど、大盤振る舞いをしていたそうです。
(田原さんの祖母・志げさんの兄の田原捨吉さんは、横浜で生糸商をしていたのですが、関東大震災後、心労のためか、田原さんが生まれる1年ほど前に他界したため、田原さんは、みんなから、捨吉さんの生まれ変わりだと言われたそうです)
父親は女性にモテた
ちなみに、お父さんとお母さんは、お見合い結婚だったそうですが、
(そのお見合いというのが、決まった時刻に決まった場所ですれ違うという、とてもユニークなものだったそうで、場所は彦根市内の橋の上だったそうですが、すれ違った時、お母さんは日傘を差し、お父さんは首巻きをしていたため、お互い、相手の顔を全く見ることができなかったそうです(笑))
お父さんはハンサムで、とても女性にモテたそうで、
(残念ながら、田原さんは、お父さんではなく、お母さんに似たそうです(笑))
ある日のこと、田原さんは、幼稚園の先生から「お父さんに渡してください」と手紙を渡されたことがあったそうですが、これはお母さんに渡した方がいいと直感的に感じ、お母さんにその手紙を渡すと、そこには、「日曜日の朝〇〇時に駅の△△で待っている」と、デートの約束が書かれてあったそうで、このことが原因で、夫婦ゲンカになったこともあったそうです。
かかあ天下だった
ただ、田原さんは、幼いながらも、お父さんに同情していたといいます。
というのも、お父さんは、お母さんに終始、尻に敷かれっぱなしだったそうで、お母さんは、末弟を出産してから、体調が悪く、それ以来、お父さんが晩御飯のおかずを買いに行っていたそうですが、
お母さんは、しばしば、お父さんの買ってきたおかずが気に入らず、「返しに行け」と言い、お父さんは、すごすごと返しに行っていたそうで、その姿を見て、田原さんは、ずっとお父さんを哀れに思い、同情していたのだそうです。
母親と祖母は折り合いが悪かった
また、お母さんは、姑の志げさん(田原さんの祖母)と折り合いが悪かったそうで、お父さんとお母さんが結婚した当時は、まだ、志げさんの兄・田原捨吉さんが横浜で生糸商をしていたことから、結婚後は、横浜に住むという条件でお母さんは結婚したそうですが、
捨吉さんが早々に亡くなってしまったため、姑の志げさんと一緒に暮らさなければならなくなり、お母さんは、よく、「約束破りだ」と怒っていたそうで、
気が強く、気位も高かった志げさんとケンカをすると、何度か実家に帰ったこともあったそうで、
お母さんは、よく、
うちのお父ちゃんはダメだ。 肝心な時、自分の母(祖母)の味方をして私を守らない
と 、愚痴をこぼしていたそうです。
「田原総一朗の幼少期は病弱もやがてやんちゃ坊主になっていた!」に続く