「岩波映画製作所」のプロデューサー・渡貫敏男さんから、翌年の1964年4月に開局予定の「東京12チャンネル」へ転職を勧められ、「東京12チャンネル」へ入社した、田原総一朗(たはら そういちろう)さんは、さっそく、開局記念番組として、当時、売れっ子作家だった安部公房の書き下ろしのSFドラマをやることを思い立ったといいます。

「田原総一朗は若い頃「東京12チャンネル」へ転職していた!」からの続き

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「東京12チャンネル」開局記念番組に安部公房のSFドラマを提案していた

1963年11月、29歳の時、「東京12チャンネル」に入社すると、さっそく、翌年1964年4月の開局記念番組で、「安部公房 書き下ろしのSF(サイエンスフィクション)ドラマをやりたい」と田原さんが提案すると、上司からは、安部公房本人が脚本を書いてくれるならばOKだと言われたそうですが、

上司や同僚たちは、内心、安部公房が新興テレビ局のために脚本を書いてくれるはずがない、と決めつけている様子だったそうです。

(当時、安部公房は、著書「砂の女」がベストセラーになって映画化もされ、田原さんが最も入れ込んでいた作家だったそうです)


砂の女

安部公房に電話でドラマのための書き下ろしを依頼するも断られていた

実際、田原さんも、提案はしたものの、安部氏とはまったく面識がなく、これといってツテもなかったそうで、

とりあえず、安部氏の自宅の電話番号を調べて電話をし、「東京12チャンネル」の開局記念番組のドラマを書いてもらえないかとお願いしたそうですが・・・

案の定、安部氏からは、忙しいことを理由に断られてしまったのだそうです。

安部公房と直談判するため自宅前に張り込んでいた

そこで、田原さんは、安部氏本人に会って直談判することにしたそうで、寒風吹きすさぶ12月のある日のこと、朝から、東京都世田谷区の閑静な住宅街にある安部氏の自宅前に張り込み、安部氏本人が出てくるのを待ったそうですが、結局、この日、安部氏は出てこなかったそうです。

そして、2日目も朝から夕方までずっと張り込んだそうですが、この日も、安部氏は出てこなかったそうです。

ただ、最低でも10日は張り込む覚悟だったという田原さんが、3日目、朝8時に安部氏の自宅前に行って張り込みを開始すると、家の中から、安部氏本人が出て来て、

入りなさい

と、言ってくれたそうで、

田原さんは、自宅に入れてもらえたのだそうです。

(安部氏は、1日目も2日目も家にいて田原さんの様子をずっと窺っていたのだそうです)

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安部公房は田原総一朗の提案をすんなり了承してくれた

そこで、田原さんが、

開局記念番組でSFドラマをやりたいのです。コンピュータを使った作品にしたら面白いんじゃないかと考えています。何でもいいから脚本を書いてもらえないですか

と、訴え、

また、

青銅器時代から鉄器時代に移り、使う素材の変化につれて、勝者もどんどん替わっていく

というような話をすると、

安部氏は、この時、ちょうど、SF小説「第四間氷期」を執筆中だったこともあってか、歴史に興味があったようで、あっさりと「やってもいいよ」と言ってくれたのだそうです。

こうして、田原さんは会社に帰り、上司に安部氏の了承が取れたことを報告したそうですが、新人の田原さんが、安部公房の了承を取れるはずがないと高をくくっていた上司や同僚たちにびっくりされたのだそうです。

(そもそも、上司は、田原さんにドラマを任せる気など全くなかったのだそうです)

「田原総一朗は若い頃「こんばんは21世紀」で高視聴率を記録していた!」に続く


第四間氷期

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