「岩波映画製作所」だけではなく、アルバイトで他のテレビ局でも番組の構成を担当するようになると、やがては、テレビのいい加減さやインチキさに魅力を感じるようになっていったという、田原総一朗(たはら そういちろう)さんですが、そんな中、プロデューサーの渡貫敏男さんから「東京12チャンネル」への転職を勧められたといいます。

「田原総一朗は「こんにちは二十世紀」「奥さまこんにちは」の構成をしていた!」からの続き

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翌年に開局する「東京12チャンネル」への転職を勧められる

テレビのいい加減さを知れば知るほど、そのいい加減さやインチキさに魅力を感じるようになっていったという田原さんですが、そんな中、1963年、29歳の時、プロデューサーの渡貫敏男さんから、翌年の1964年4月に開局する予定になっていた「東京12チャンネル」への転職を勧められたといいます。

実は、「東京12チャンネル」の幹部から、どういう番組を作ったらよいかアドバイスを求められた渡貫さんが、(何を思ったのか)田原さんに、

俺のところに相談に来ているのだが、おまえ、東京12チャンネルに行ったらどうだ

おまえは科学番組じゃなくて、本格的なドキュメンタリー番組を作った方がいい

と、言ってきたのだそうです。

形だけの入社試験を受けて「東京12チャンネル」に入社

これに対し、ちょうど、好きなことができるテレビで仕事がしてみたいと思っていた田原さんは、「ぜひ、行きたい」と、答えたそうで、

一応、形だけの入社試験(論文と面接)を受けて(つまり、コネ)、「東京12チャンネル」の入社が決まり、1963年10月、「岩波映画製作所」を退社したのだそうです。

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「岩波映画製作所」を退職する際には負い目を感じていた

ちなみに、田原さんは、この時のことを、著書「塀の上を走れ 田原総一朗自伝」で、

岩波映画時代、藤瀬季彦というカメラマンと渡貫敏男というプロデューサーに出会わなければ、私のディレクターとしての人生は拓けなかった。もしかしたら、路頭に迷っていたかもしれない。

だから、ふたりは私にとって大切な恩人である。実は、退社する際に、ひとつだけ心残りがあった。岩波映画は割に労働組合がしっかりした会社で、ちょうどこの頃、私に「労働組合の委員長になれ」というオファーが来ていたのである。

「たいへん申し訳ないけれど、辞めることになった」と伝えると、組合員たちはみなシラけ切った顔をしていた。一種の裏切り行為であり、弁解する余地は無い。

この時はとても辛く、負い目を感じた。私は深々と頭を下げ、最敬礼をした。そして「申し訳ない」とだけ言って、その場を辞したのだった。

と、綴っています。

「田原総一朗が若い頃は安部公房の自宅前で2日間張り込んでいた!」に続く


塀の上を走れ 田原総一朗自伝

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