安部公房氏の自宅前に2日間張り込み、ドラマを書き下ろしてもらうことを取り付けたという、田原総一朗(たはら そういちろう)さんは、その後、安部氏が希望する、フランキー堺さんと加賀まりこさんの出演も取り付け、1964年4月12日、無事、「東京12チャンネル」開局記念番組として、「こんばんは21世紀」が放映されると、ゴールデンタイムに放映された「東京12チャンネル」の番組の中でトップの視聴率を記録したそうです。

「田原総一朗が若い頃は安部公房の自宅前で2日間張り込んでいた!」からの続き

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安部公房からはSFドラマ「こんばんは21世紀」を書き下ろしてもらうことに

作家・安部公房氏からテレビドラマ執筆の了承を得た田原さんは、その後、安部氏の自宅に何度も通い、安部氏本人と打ち合わせを重ね、

21世紀のある時、コンピュータのキャパシティが人間の脳細胞より大きくなり、プログラムする能力も備えるようになった。ついに人間が要らなくなり、コンピュータが人間に『君たちはもう不要だ』と死刑を求刑し、裁判を行う

という、SFドラマ(「こんばんは21世紀」)を安部氏に書き下ろしてもらうことになったそうです。

(脚本は別の作家に書いてもらうことになり、はじめ、安部氏は清水邦夫さんを希望したそうですが、清水さんは、ちょうどこの時、映画制作でアフリカへ行っていて不在だったため、安部氏がもう一人推薦した、左翼系の「新日本文学」の作家に依頼することになったそうです)

安部公房はドラマを書く条件にフランキー堺と加賀まりこの出演を希望していた

ただ、安部氏からは、ドラマを書く条件として、二人の主役を口説くように言われたそうで、その2人というのは、フランキー堺さんと加賀まりこさんだったそうですが、

どちらも、当時、超売れっ子の俳優だったため、芸能界には全くといっていいほどコネがなかった田原さんは困り果ててしまったそうです。

(と同時に、田原さんは、上司や同僚がこの企画がボツになったと内心ホッとしたに違いないと思ったそうです)

フランキー堺と加賀まりこのドラマ出演を取り付ける

それでも、田原さんは、日本テレビ「奥さまこんにちは」で知り合って以来、親しい友人となっていた、フリーの構成作家・菅沼定憲さんに泣きつくと、

菅沼さんは、フランキーさんも加賀さんも、安部氏の作品なら話に乗るかもしれないと、知り合いの芸能プロダクションのマネージャーを紹介してくれ、田原さんが、そのマネージャーのつてで、フランキーさんと加賀さんに直接会って必死に口説いたところ、2人共、「安部公房ならやる」と言ってくれたのだそうです。

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「東京12チャンネル」開局記念番組「こんばんは21世紀」が高視聴率を記録

こうして、田原さんが、「東京12チャンネル」開局記念のためのSFドラマ「こんばんは21世紀」を担当することが正式に決まると、田原さんはドラマの制作など一度もしたことがなかったため、NHKの人気ドラマ「事件記者」を担当していた若林一郎さんとの共同演出でドラマが作られることになったそうです。

ただ、「こんばんは21世紀」の制作期間はわずか12日間で、そのうえ、スタジオが狭いため、セットを作り変えなければならず、1回作っては壊し、また作っては壊す、という突貫工事を繰り返さなければならなかったそうで、

田原さんは、製作期間中、スタジオやサブ(副調整室)に張り付いて、同僚と交代で仮眠をとりながら、自宅には1度も帰らずに、突貫工事を続けたそうですが、

(この間、俳優はただ待っているだけの状態だったため、フランキーさんはイライラしていたとのこと)

1964年4月12日、「東京12チャンネル」が開局し、「こんばんは21世紀」が開局記念番組として放映されると、視聴率は2.8%を記録し、ゴールデンタイムに放映された「東京12チャンネル」の番組の中で、トップに輝いたのだそうです。

「田原総一朗は若い頃「未知への挑戦」を妬みから降板させられていた?」に続く

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