両親の自由な教育方針のもとすくすくと育ったという、長嶋一茂(ながしま かずしげ)さんは、1975年、小学4年生の秋、「ミスタージャイアンツ」である父・長嶋茂雄さんの後を追い、リトルリーグ「目黒クリッパーズ」に入団し、本格的に野球を始めたそうですが、これをきっかけに、一茂さんは心に影を落とすことになったといいます。

「長嶋一茂の少年時代は何をしても両親に怒られなかった?」からの続き

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リトルリーグに入団するとマスコミに追いかけられる

一茂さんは、1975年にリトルリーグ「目黒クリッパーズ」に入団したそうですが、この年は、ちょうど、お父さんの長嶋茂雄さんが後楽園球場で現役引退を発表した翌年だったそうで、

戦後最大の英雄を失った直後で世間が意気消沈していたタイミングでの、「英雄の息子」が野球を始めたというニュースに、マスコミはこぞって一茂さんを追いかけたそうです。

父・長嶋茂雄に野球を強制されたことはなかった

ちなみに、一茂さんは、お父さんから野球をやるように言われたことは一度もなかったそうですが、だからと言って、野球をやると言い出しても止められることもなかったそうで、当時の週刊誌には、庭で一茂さん・茂雄さん親子がキャチボールする姿がたびたび掲載されていたそうです。

そして、そのどれも、父・茂雄さんは、父親としてこれ以上の幸せはないと、まるでこの世で最も貴い何かを見つめているかのように、いつもまぶしそうに目を細め、息子の一茂さんを見ていたそうです。

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野球の技術が未熟にもかかわらず特別扱いされていた

さておき、マスコミが一茂さんに群がったことで、目黒クリッパーズには、入団希望者が何百人も殺到したそうで、その中には、当然、一茂さんよりも上手な子が何人もいたそうですが、一茂さんは、レギュラーに選ばれたそうで、当然、嬉しかったものの、内心、どうして自分が、という思いもあったそうです。

(ほかの子供たちも、きっと同じような思いをしているだろうとも思ったそうです)

また、一茂さんは、レギュラーに選ばれただけでなく、同年、巨人軍監督に就任したお父さんと同じ背番号「90番」をつけさせられたほか、打順は3番、守備はサードと、何もかもお父さんと同じにされたそうで、

背番号もポジションも自分の実力で取りたかった一茂さんは、嬉しいどころか、むしろ苦痛だったそうです。

(一茂さんは、この時、まだそれほど野球がうまくなかったため、背番号はともかく、子供心にもサードというポジションを与えられたことに作為を感じたそうです)

「長嶋一茂は小5の時マスコミが嫌で野球を辞めていた!」に続く

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