在日韓国人の母親の影響で、ずっと、大韓民国籍のままでいるという、張本勲(はりもと いさお)さんですが、幼い頃は、戦時中で日本中が食糧難だった中、特に張本家は貧乏で、張本さんは、いつもお腹をすかせていたといいます。
「張本勲(韓国籍)と(帰化した)金田正一の関係は?」からの続き
両親は在日韓国人
張本さんのお父さんは、張相禎(チャン サンジョン)さんといい、(日本の植民地だった)慶尚南道昌寧(キョンサンナムドチャンニョン)郡の出身だそうですが、先に日本に住みつき、広島で古物商をやっていた、弟の応道(おうどう)さん(張本さんの叔父さん)に促されて日本にやって来ると、応道さんの家に身を寄せ、一緒にリヤカーを引いて、くず鉄や古道具を売るようになったそうです。
その後、お父さんは、一旦、朝鮮に戻ったそうですが、数年後には、「これなら暮らしていける」と思い、1939年春、妻の朴順分(パクスンブン)さん(張本さんのお母さん)、長男の世烈(セヨル 後の日本名・張本世治)さん、長女の点子(ジョムジャ 後の日本名・てんこ)さん、次女の貞子(ジョンジャ 後の日本名・さだこ)さんと共に、朝鮮半島から玄界灘を船で渡って来たそうで、
(1910年、日本と韓国が併合したことにより、韓国から広島への移住者は1920年代半ばから増えたそうで、張本さんが生まれた1940年には、(内務省の記録によると)広島県内には約3万8千人が居住していたそうです)
広島県安芸郡矢野町(現・広島市安芸区)に移り住むと、まもなく、広島の大洲町(現・南区大州)に引っ越し、そこで、朝鮮人が住む長屋を借りて書道塾を始めたそうです。
幼少期は貧乏でいつもお腹を空かせていた
この時、お母さん(39歳)は、身重の身で(張本さんを妊娠していたそうで、
張本さんは、3人兄姉(兄1人姉2人)の末っ子として、大洲町の猿猴川(えんこうがわ)に架かる東大橋の近くにある長屋で誕生したそうです。
ただ、戦争中だったため、日本中が食糧難で(張本家は特に貧乏だったそうです)、張本さんは、いつもお腹をすかせていたそうで、
夏になると、近くの畑で遊んではトウモロコシを取って食べ、少し離れたところにあった比治山(ひじやま)や黄金山では栗拾いをし、石で叩き割って食べたそうです。
父親が太刀魚の骨が喉にひっかかり他界
そんな中、お父さんは、残っていた少しばかりの田畑を処分したり、両親(張本さんの祖父母)を説得するため、再び韓国に戻ったそうですが、
そこで食べた太刀魚の骨が喉にひっかかり、数ヶ月もの間、悶え苦しんだ後、とうとう食道が破れてしまい、終戦後、急死してしまったそうです。