4歳の時、トラックに跳ね飛ばされて焚き火の中に落ち、大やけどを負って右手が元に戻らなくなってしまったという、張本勲(はりもと いさお)さんですが、5歳の時には、爆心地からわずか2.5キロの地点で原爆投下に遭うも、無事だったといいます。

「張本勲は幼少期に右手に大やけどを負わされていた!」からの続き

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在日朝鮮人の張本一家は戦時中は身を潜めるようにして生きていた

張本さん一家は、広島市大洲町の長屋から、段原新町(現・南区段原あたり)の長屋に移り住んだそうですが、広島は、大日本陸軍・海軍ともに、重要拠点を置く「軍都」だったため(軍管区司令部や江田島海軍兵学校などがあったそうです)、

戦争が激しくなっていくと、在日朝鮮人は差別され、虐待されたそうで、張本さん一家も身を潜めるようにして生きていたそうです。

5歳の時に爆心地から2.5キロで原爆投下に遭うも助かっていた

そんな中、1945年8月6日、張本さんが5歳の夏、いつものように路地裏で遊ぼうと、ちょうどドアを開けた瞬間、赤い閃光がパッと光ったかと思うと、ドーンというものすごい音がしたそうで(原爆投下)、

その直後、意識を失い、しばらくして意識が戻ると、真っ赤な色が目に飛び込んできたそうで、それは、お母さんが、張本さんと2番目の姉の貞子さんをかばって覆いかぶさり、背中に爆風で飛んできたガラスの破片を受けて飛び散った血だったそうです。

(お母さんの背中には、ハリネズミのようにガラスの破片が刺さっていたそうですが、幸い、それほど大きなケガではなかったそうです)

そして、爆風と激しい揺れにより、家は全壊したそうですが、(張本さんの自宅は、爆心地から東に約2.5キロのところにあったそうですが)海抜約70メートルの比治山が、原爆の熱線を遮ってくれ、張本さんたちは命拾いしたのだそうです。

(張本さんの家よりももっと下の方にあった家は、原爆の光線を浴びて全滅したそうです)

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ぶどう畑まで走って逃げて助かっていた

ちなみに、張本さんが意識を取り戻すと、お母さんは、

ネーペーラツ(逃げろ!)カグラーツ カグラーツ パルリーツ(行け、早く、行け!)

と、すぐに(家から百メートルほど離れた東雲町の)ぶどう畑に逃げるよう、絶叫したそうで、

張本さんが、

お母ちゃんは?

と、聞くと、

お母さんは、

お母ちゃんはここで、(いつものように学校に行った)お兄ちゃんと(一番上の)お姉ちゃんを待ってるから(後でぶどう畑で落ち合おう)

と、言ったそうで、

張本さんは、真っ青になりながらも、2番目のお姉さんの貞子さんとしっかり手をつなぎ、お母さんの言う通り、近くのぶどう畑まで必死に走って無事逃げ切ることができたのだそうです。

(ぶどう畑までとても遠く感じたそうです)

「張本勲の姉は原爆の熱線を浴びて全身に大やけどを負っていた!」に続く

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