5歳の時には、爆心地から2.5キロの場所で原爆投下に遭うも、二番目のお姉さんと共に逃げて助かり、お母さん、お兄さんとも再会を果たしたという、張本勲(はりもと いさお)さんですが、一番上の姉・点子さんは、原爆の熱線をまともに浴び、全身に大やけどを負った無惨な姿で運び込まれてきたといいます。

「張本勲は幼少期に原爆投下に遭うも助かっていた!」からの続き

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母親とぶどう畑で再会を果たす

1945年8月6日、5歳の時には、爆心地から2.5キロの場所で原爆に遭うも、2番目の姉・貞子さんと共に、ぶどう畑まで逃げ切ったという張本さんは、

しばらくすると、お母さんもぶどう畑に来て、無事、3人再会を果たしたそうで、

お母さんは、

チャル サラッタ(生きていてよかった)

と、言って、張本さんと貞子さんを抱きしめて泣いたそうです。

ぶどう畑では何十人もの人がやけどやケガで苦しみうめいていた

ただ、このぶどう畑には、すでに何十人もの人が避難しており、人の肉が焼ける強烈な臭いが充満するほか、やけどやケガで苦しむ人々のうめき声や叫び声が、あちらこちらから聞こえてきたそうです。

また、突然、張本さんの目の前を走り抜け、絶叫しながら、猿猴川に飛び込み、亡くなる人も何人もいたそうで、

張本さんは、この時のことを、

2日後か3日後ぐらい、しっかり覚えているのはうめき声ね。もう、夜中には、苦しい、痛いんでしょうね。それと、におい、人肉のにおい、非常にくさいにおいがね、この二つは覚えてますね。

あとは我々のところへ、目の前を何人も走っていって、どぶ川に飛び込むんですよ、熱いから。全部亡くなったそうですよ。覚えてるのはそれぐらいですね。文字通り地獄絵と言うような感じでしたね。

ケロイドでね、全身焼けてね、見るに見れない状態でしたからね。そのにおいがもう鼻についてね、眠れませんでしたね。それも一人や二人じゃありませんからね、何十人ですから

と、語っており、

子供心にも、世の中がこのまま失くなっていくのではと思われたそうで、今でも忘れられないそうです。

兄とも無事再会を果たすも・・・

さておき、それから半日ぐらいして、お兄さんが、ぶどう畑に張本さんたちを探しに来たそうで、4人は再会を果たしたそうですが・・・

(お兄さんは、原爆が落とされた時、通っていた段原中学校へ行く途中で、宇品線(旧国鉄で1972年廃止)を越えたところだったそうですが、訳も分からないまま、体ごと投げ出されたそうです)

比治山に勤労奉仕に出かけていた、6歳年上の一番上のお姉さんの点子さん(小学6年生)だけは、まだ行方不明だったそうです。

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一番上の姉は原爆の熱線をまともに受け全身にやけどを負った姿で運び込まれて来た

すると、2日後、全身にやけどを負って赤く腫れ上がり、顔も分からない無惨な姿になった一番上のお姉さんの点子さんが、赤十字の担架で運ばれてきたそうで、張本さんは、これが本当に自分の姉かと、まったく信じられなかったそうです。

(点子さんは、比治山で原爆の熱線をまともに浴びていたそうで、服の名札を手がかりに、点子さんと判明したそうです)

ちなみに、点子さんは色白で背が高く美人だったことから、よく、近所の人や友達に「勲ちゃんはええのお、きれいなお姉ちゃんがおるけん」と羨ましがられ、張本さんの自慢のお姉さんだったそうです。

「張本勲の姉は原爆の熱線を浴び悶え苦しみながら他界していた!」に続く

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