終戦後、東大橋近くの川づたいの土手の下に、六畳一間と三畳の土間にトタン屋根をつけただけの、かろうじて雨露がしのげる程度の粗末な家(バラック小屋)で暮らし始めた、張本勲(はりもと いさお)さんの一家は、やがて、お母さんが、実質、密造酒の一杯飲み屋である、ホルモン焼き屋を始めたことで、戦後の混乱期を生き延びることができたといいます。

「張本勲は終戦後は粗末な小屋で極貧生活を送っていた!」からの続き

Sponsored Link

母親が小さなホルモン焼き屋を始める

東大橋近くの川づたいの土手の下の粗末なバラック小屋を借りて暮らし始めた張本家は、お母さんが、広島市内で鉄を作って暮らしていた父方の親戚を頼ってお金を借りに行くほか、お兄さんの(馬車屋の荷物を運ぶ)アルバイト代でなんとか食いつないでいたそうですが、

1年くらい経った頃には、お母さんが得意だった料理を活かして商売を始めようと考え、そのバラックの板の間を改造して、(今でいう)小さなホルモン焼き屋を始めたそうで、

(店といっても、お兄さんがもらってきたみかん箱に、布をかけただけのものをテーブルにして家の外に置いただけの、簡単なものだったそうです)

広島駅前の闇市で牛や豚などの密殺した肉や臓物などを仕入れ、ご飯、スープ類、キムチなどは自分で作り、お酒は近所の人から分けてもらった「どぶろく」や「焼酎」などの、いわゆる密造酒を提供したそうです。

密造酒の一杯飲み屋だったことで生き延びていた

すると、お酒のない時代だったため、お客はホルモン焼きよりも密造酒を目当てに集まってきたそうで、もちろん、警察に見つかれば捕まる行為だったのですが、

敗戦直後の焼け野原ではほかに生活手段がなく、そんな密造酒の一杯飲み屋をやることで、張本家はかろうじて生き延びることができたのだそうです。

(客は近くで働く工員や大工さんだったそうです)

また、お店では、具材が白菜だけながら、お母さんが手間暇かけて丁寧に作ったキムチも評判だったそうです。

(韓国では百種類以上ものキムチがあるそうですが、一般的には、リンゴや梨、牡蠣(かき)などを入れて旨味を出すそうです)

母親の作るキムチが評判だった

ちなみに、お母さんは、日本語の文字が読めなかったため、お客から注文を受けるたびに、壁に炭で印をつけて数字を書き、間違えないようにしていたそうで、

勘定の時、お客から日本語で「おばちゃんいくら」と聞かれても、ちゃんとお金のやり取りをしていたそうです。

Sponsored Link

浪花節が上手な客の影響で浪花節が好きになっていた

こうして、張本さんが学校から帰ってガラッと戸を開けると、(六畳一間のため、店と家の区別がなかったことから)土間に置いたミカン箱のテーブルでいつも何人かが楽しそうに一杯やっていたそうですが、

そんなお客の中には、声をつぶして本格的に浪花節(浪曲)を歌うおじさんがおり、そのおじさんは、張本さんが障子で区切った部屋で一人でご飯を食べていると、いつも、障子を開けて、「勲ちゃん、こっちに来て聴けよ」と呼んでくれたそうで、

張本さんは、そのおじさんが「妻は夫を労りつ~、夫は慕いつつ~」などと歌うのを聴いていたことから、今でも浪花節が好きなのだそうです。

(そのおじさんは、時々、ホルモンもおごってくれたそうです)

「張本勲の少年時代は家族の愛情を一身に受けすくすく育っていた!」に続く

Sponsored Link