2001年、2002年は、親会社の経営不振や主力の離脱でリーグ優勝を逃すも、2003年にはリーグ優勝を果たし、日本シリーズでも阪神タイガースを下して、2度目の日本一を達成している、王貞治(おう さだはる)さんですが、2004年、2005年も2位に4.5ゲーム差をつける首位でペナントレースを終えるも、2004年から、5戦のうち3勝した方がリーグ優勝というプレーオフ(PO)制度が始まっており、2年連続で2位のチームに2勝3敗で負け、リーグ優勝を奪われています。

「王貞治が2000年のON対決で負けたのは変則日程も大きな原因だった!」からの続き

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2001年と2002年は親会社ダイエーの経営不振と主力メンバーの離脱で大打撃を受けていた

1999年、2000年と2年連続でリーグ優勝を果たした王ダイエーですが、2001年には、親会社のダイエーの経営不振が響いて球団経営が苦しくなり、

(中内功オーナーがダイエーの会長職を退任)

2002年には、若田部健一投手がFAで横浜ベイスターズに移籍し、秋山幸二選手が引退。

2003年には、精神的支柱だった主砲の小久保裕紀選手が、開幕直前、西武とのオープン戦で、右膝の前十字靭帯断裂・内側靭帯損傷・外側半月板損傷・脛骨と大腿骨挫傷という大ケガを負ってシーズン絶望となるなど、主力選手たちが次々と抜けます。

2003年には2度目の日本一になるも・・・

それでも、2003年は、投手陣では、ドラフト自由契約枠で入団した和田毅・新垣渚の両投手が大車輪の活躍するほか、斉藤和巳投手が20勝、打撃陣では、村松有人選手と川﨑宗則選手の打棒が開花するほか、井口資仁選手、松中信彦選手、城島健司選手、ペドロ・バルデス選手ら強力100打点カルテットで、再び、リーグ制覇(82勝55敗3分)を果たすと、

日本シリーズも星野仙一監督率いる阪神を4勝3敗で制し、2回目となる日本一に輝いたのですが・・・

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2004年、2005年は、4.5ゲーム差をつけてシーズン勝率1位もプレーオフ(PO)で負け優勝を逃していた

2004年からプレーオフ(PO)制度が始まると、このシーズンは勝率1位(77勝52敗4分で5割9分7厘)だったにもかかわらず、5戦3勝制のPOで、シーズン勝率2位(74勝58敗1分で勝率5割6分1厘)の西武に、2勝3敗で敗れて優勝を逃し、

翌2005年も、シーズン勝率1位(89勝45敗2分で6割6分4厘)だったにもかかわらず、5戦3勝制のPOで、シーズン勝率2位(84勝49敗3分で勝率6割3分2厘)のロッテに、またしても、2勝3敗で敗れて優勝を逃しており、

(シーズンで2位と5ゲーム以上の差をつけていればPOで1勝のアドバンテージが得られるルールでしたが、2004年、2005年共に、2位とは4.5ゲーム差でした)

王さんは、著書「もっと遠くへ 私の履歴書(日本経済新聞出版)」で、

長いシーズンの成績を短期決戦でひっくり返すのは理不尽、という批判もあった。その結果、日本シリーズの性格も我々の時代とは違ってきたように感じる。

圧倒的なシーズンの成績だっただけにファンの方もがっかりだったと思う。それでも決められた以上、そのルールに従うのがスポーツの世界に生きる者の務めと私は割り切った。

と、綴っています。


もっと遠くへ 私の履歴書(日本経済新聞出版)

「王貞治はソフトバンク孫正義の言葉でWBCの監督を引き受けていた!」に続く


2004年10月11日、POで敗れ西武の胴上げを無念の表情で見守る王さん(右端)。

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