1982年には、プロ入り14年目にして、初のリーグ優勝と日本一を経験した、田淵幸一(たぶち こういち)さんは、1983年には、王貞治さんのシーズン55本塁打を上回るペースで本塁打を量産していたそうですが、7月13日に死球を受けて左手首を骨折すると、荒療治でさらに悪化し、復帰まで約3ヶ月ちかくかかってしまったそうで、「本塁打王」をあきらめ、目標を巨人を倒して日本一になることに切り替えたといいます。
「田淵幸一は西武で日本一になり広岡監督が間違っていなかったと感じていた!」からの続き
王貞治の55本塁打を上回るペースで本塁打を量産していたが・・・
1982年、初めて、リーグ優勝と日本一を経験した田淵さんは、打率2割1分8厘、25本塁打、59打点という成績ながら、契約更改では、3100万円から4200万円へと跳ね上がったそうで、
(当時としては破格の昇給だったそうです)
勝つ喜びを二重に味わい、広岡達朗監督に対する反発も信頼に変わったそうで、翌1983年には、4月こそ2本塁打も、5月には15本塁打、6月には11本塁打と、本塁打を量産。
王貞治さんの持つシーズン55本塁打のプロ野球記録を上回るベースで、初のセ・パ両リーグ本塁打王は間違いなしと言われていたのですが・・・
近鉄戦で死球を受け左手首を骨折したうえ荒療治で悪化し復帰まで3ヶ月近くかかっていた
7月13日、近鉄戦(日生球場)で、5回、柳田豊投手から左手首に死球を受けると、尺骨下端の骨折(全治1ヶ月)と診断されたのだそうです。
しかも、広岡監督の勧めで、巨人のV9を陰で支えた伝説の整骨医の元で修業したという整体師の治療を受けると、
(荒治療だったそうです)
逆に骨折部分の骨がずれて、回復までに時間がかかったそうで、復帰は大幅に遅れ、シーズン終盤の10月4日の南海戦で、ようやく、83日ぶりに復帰したのだそうです。
左手首に死球を受け倒れ込む田淵さん。(1983年7月13日)
本塁打王をあきらめ日本シリーズ優勝(打倒巨人)に目標を切り替えていた
ちなみに、田淵さんは、骨折をした時点では、3割4厘、29本塁打、67打点の好成績で、特に本塁打は、南海(現・ソフトバンク)の門田博光さんに9本差をつけて独走していたそうですが、骨折から1ヶ月半後の8月30日には、門田さんに29本で並ばれると、
その時点でも復帰の目処が立たなかった田淵さんは、気持ちを本塁打王(タイトル)から日本シリーズに切り替えたのだそうです。
(前年、中日を破って、西武が日本一になっているものの、巨人を倒してこそ真の日本一という思いだったところ、この頃、セ・リーグでは巨人が首位を走っており、阪神時代に果たせなかった「打倒巨人」へと意識を集中させたのだそうです)
「田淵幸一は巨人との日本シリーズで江川卓と西本聖からホームランしていた!」に続く