帝京商業学校時代の監督で、明治大学では技術顧問だった天知俊一さんにフォークボールの存在を聞き、試行錯誤の末、投げ方を会得するも、試合で初めてフォークを投げた際、当たり損ないながらヒットになったことから、縁起が悪いと、以来、フォークボールを封印していたという、杉下茂(すぎした しげる)さんですが、大学卒業後、中日ドラゴンズに入団すると、封印していたフォークボールを解禁して、1年目8勝、2年目は27勝したといいます。
「杉下茂は試行錯誤の末にフォークボールを会得していた!」からの続き
明治大学旧制専門部卒業後は中日ドラゴンズに入団
杉下さんは、明治大学旧制専門部(3年制)卒業後の進路を考える時期になり、そのまま学部(3年間)へ進学するか、プロ入りするかで迷っていると、お母さんから、「お金は何とかなるから学部へ進め。野球を職業にしてはいけない」と、プロ入りを猛反対され、一旦は、学部へ進学しようと、財界からスポンサー探しをしたそうですが、
(杉下さんのお父さんは、杉下さんが小学4年生の時に他界しており、その後、駄菓子屋を営むお母さんが、女手一つで杉下さんを育ててくれたそうです)
他人の世話になって大学を卒業することに抵抗を感じ、最終的には、1949年、恩師の天知俊一さんと駿台倶楽部会長だった小西得郎さんの口利きで、中日ドラゴンズに入団したそうです。
(契約金50万円、年俸36万円だったそうですが、当時はラーメンが1杯50円の時代で、「10年やればサラリーマンの生涯賃金より多くなるはず」と言われて入団したのだそうです)
プロ入り2年目は春先に右肩を痛めるもその後回復し27勝していた
そんな杉下さんは、1949年4月3日、中日球場で行われた南海ホークス2回戦で初登板し、いきなり初勝利を挙げると、続く東映フライヤーズ戦でも、封印していたフォークボールを用いて大下弘選手から3打席連続三振を奪うなどの活躍で、最終的には、この年、8勝、
翌年1950年(プロ2年目)は、春季キャンプでは右肩の痛みから、球拾い専門だったそうですが、5月頃から痛みが消えたそうで、55試合に登板すると、27勝15敗、防御率3.20という成績を収めたのでした。
(右肩の痛み再発防止のため、名古屋での試合後は超短波治療を受け続けていたそうです)
初本塁打が満塁本塁打
また、杉下さんは、打者としても、同年4月21日、西日本パイレーツ5回戦の6回表、野本喜一郎投手からプロ初本塁打を打っているのですが、これが満塁本塁打だったそうで、
セントラル・リーグ初の「投手が打った満塁本塁打」1号で、(前身時代を含めた)中日球団史上初の「プロ入り初本塁打が満塁本塁打」でもあったそうです。
(2021年5月には、中日の根尾昂選手もプロ初本塁打を満塁ホームランで飾っているのですが、2リーグ制以降、中日の日本人選手では、杉下さん以来71年ぶりだったそうです)
「杉下茂はプロ3年目の米キャンプで無回転フォークを編み出していた!」に続く