味方の野手から「一人で野球やるな」「オレらにも野球やらせろ」と怒鳴られたほか、自身も直球で勝負したいという気持ちがあったことから、普段は1試合(特に巨人戦)に数球(多くて10球)しかフォークボールを投げなかったという、杉下茂(すぎした しげる)さんですが、たった一度だけ、フォークボールを多投した試合があったといいます。
「杉下茂がフォークを多投しなかったのは味方からのクレームが原因だった!」からの続き
日本シリーズ(西鉄戦)第7戦では投球の半分以上がフォークボールだった
それは、1954年11月7日の日本シリーズ(西鉄戦)第7戦だったそうで、
(杉下さんは、第1戦では完投勝ち(5対1)、第2戦は6回から救援(5対0)、第3戦は登板なし(0対5)、第4戦は完投負け(0対4)、第5戦は完投勝ち(3対2)、第6戦は登板なし(1対4)と、チームは3勝3敗という状況で、第7戦にもつれ込んだそうです)
杉下さんは先発として登板すると、初回を0点でベンチに戻ったそうですが、
河合保彦捕手から、青い顔をして、
カーブが全然、曲がっていません
と、言われたそうで、
杉下さんは、
わかった、サインはカーブでいい。オレが自分で投げ分ける
と、言い、2回からは、約80球のうち半分(40球超)フォークを投げ、
結果、7回裏に井上登選手が放った適時三塁打による1点を守り抜いて1対0で完封勝利し、中日を球団史上初の日本一に導いたのだそうです。
(杉下さんは、7試合中5試合に登板し、4試合で完投)
フォークボールを多投したのは恩師・天知俊一を日本一にさせたかったから
実は、天知俊一監督は、1949年に中日ドラゴンズの監督に就任すると、その後、1952年シーズン後に辞任し、1954年に監督に復帰しているのですが、
天知監督は、杉下さんの高校時代からの恩師で、1949年に、杉下さんを中日に誘ってくれた人でもあったそうで、
杉下さんは、そんな天知監督をどうしても日本一にしたい一心で、40球超のフォークボールを投げたのだそうです。
(試合に勝利した後、杉下さんは、疲労困憊で天知さんの胴上げに加われなかったそうで、ベンチにうずくまって、涙していたそうです)
フォークボールの投げ方はチームメイトにさえ明かさなかった
ちなみに、杉下さんは、この年(1954年)、キャリア最多の32勝を挙げるほか、奪三振王(273)のタイトルも獲得する活躍で、MVPに輝いており、フォークボールの秘密に注目が集まったそうですが、
杉下さんは「企業秘密だ」と隠し通したそうで、現役時はチームメイトにもフォークボール投げ方を明かすことはなかったのだそうです。
村田兆治投手にフォークボールを伝授していた
それでも、杉下さんは、現役引退後、1974年には、ロッテオリオンズの投手コーチだった植村義信さんからの依頼で、村田兆治投手にフォークボールの投げ方を教えたそうで
村田投手は、杉下さんにより伝授されたフォークボールに、自己流のアレンジを加えて投げ方を習得すると、
(寝る時に人差し指と中指の間にボールを挟み、包帯でぐるぐる巻きにした状態で寝たのだそうです)
この年の日本シリーズ(中日戦)には、フォークボールで三振の山を築いたそうで、杉下さんは中日球団の関係者から激しく怒られたのだそうです(笑)
「杉下茂ら中日選手は天地俊一監督の為に優勝を目指していた!」に続く
西鉄に完封勝利し、三富恒雄投手(左)と西沢道夫選手(右)に抱きかかえられて引き上げる杉下さん(中央)。