1989年にフランスの野球のクラブチームの監督に就任すると、1990年から1995年までフランスのナショナルチームの監督を務めるなど、フランスでゼロからチームを作る楽しさに夢中になっていたという、吉田義男(よしだ よしお)さんは、そんな中、1996年には、3度目となる阪神監督をオファーされるも、一旦は辞退していたといいます。
「吉田義男は7年間フランスの野球チームを指導していた!」からの続き
フランスから一時帰国中に阪神から3度目の監督オファーを受けていた
吉田さんは、フランスから一時帰国していた、1996年10月2日の深夜、阪神タイガース・三好一彦球団社長から宝塚市の自宅に電話がかかってきて、これから訪問したいと言われたそうで、吉田さんが、何事ですかと尋ねると、阪神の監督オファーを受けたそうで、吉田さんが耳を疑い、言葉を失っていると、
(吉田さんは「もう私の時代ではない」と思っていたそうです)
三好球団社長からは、
タイガースを再建できるのは、君しかいないんだよ。吉田君に監督をしてほしい、というのは、本社も球団もすべての役員の総意なんや
と、言われたそうです。
(吉田さんは、立命館大学1年生の時、神戸大学4年生だった三好さんと対戦したことがあったほか、吉田さんの阪神入団と三好さんの阪神本社入社が同じ年だったことから、三好さんには縁と恩義を感じてはいたそうです)
3度目の阪神監督オファーは一旦は断っていた
ただ、吉田さんは、本音としてはやりたくなかったそうで、とりあえずは、
とにかく少し時間をください
と、だけ答えたそうですが、
三好さんは、翌朝5時半にもう一度返事を聞きに来ると言い、その言葉どおり、翌日3日の5時半きっかりに、奥さん同伴で訪ねてくると、
どうしても君にやってほしい
と、言ったそうです。
そこで、吉田さんは、
本当にありがたいお話と思いますが、私は本心から、二度と監督をやるつもりはないんです。どうか分かってください
と、言ったそうですが、
三好さんは、
でも、君しかおらんのや
と、引き下がらなかったそうで、
結局、この日は、結論が出ないまま時間切れとなり、その日、吉田さんは、奥さんとともにフランスに旅立ったのだそうです。
阪神タイガース・三好一彦球団社長が早朝に訪ねてきたのはマスコミのスクープを避けるためだった
ちなみに、三好さんが、なぜ、早朝5時半という非常識な時間帯に吉田さんを訪ねてきたかというと、マスコミによるスクープを避けるためだったそうで、
吉田さんは、既に日本野球からの卒業を公言していたため、マスコミからノーマークだったそうですが、球団社長の三好さんはぴったりマークされていたことから、夜には強いマスコミも、朝には弱いだろうと、深夜~早朝という時間帯をあえて選んだのだそうです。
(監督の去就を巡るマスコミのスクープ合戦は激しく、特に人気球団である阪神の監督人事はファンの関心が高く、新聞の売れ行きに大きく影響したそうです)
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