入団テストを受けてから5ヶ月後に合格通知を受け取り、練習生として大阪(阪神)タイガースに入団すると、練習生⇒二軍⇒一軍と順調に昇格したという、小山正明(こやま まさあき)さんは、しばらくはストレートしか投げられなかったにもかかわらず、勝ち星を重ね、主力投手になっていったといいます。
「小山正明は阪神の入団テストから5ヶ月後に合格通知を受けていた!」からの続き
初登板第1球は大暴投だった
小山さんは、1年目の1953年、8月26日の広島戦で初登板を果たすと、第1球はキャッチャーの頭上1メートルを通過し、ノーバウンドでバックネット裏に直撃する大暴投をしてしまったそうですが、
(初登板の相手は、球界を代表する強打者・小鶴誠選手だったそうですが、この大暴投で小鶴選手は腰が引けたそうで、小山さんは初三振を奪ったそうです)
この年は、(16試合に登板して)5勝1敗の成績を残します。
4年目の1956年には17勝&防御率1.66の好成績で主力投手になっていた
そして、2年目の1954年には、早くもチーム最多となる11勝を挙げ、先発ローテーションに定着すると、3年目の1955年は7勝にとどまるも、4年目の1956年には、17勝、防御率1.66(リーグ6位)と好成績を収め、大崎三男投手、渡辺省三投手と並び、主力投手となります。
(この間、小山さんのお給料は5000円から6倍の3万円となったそうです)
ストレートだけで三振の山を築いていた
そんな小山さんは、しっかりとしたカーブやスライダーを覚えるまでは、ストレートしか投げられなかったそうですが、1956年3月27日の広島戦では、初回、先頭打者から7連続三振(全部ストレートで空振り三振)を記録したそうです。
(7連続三振の後、8番の恵川康太郎選手にフルカウントから四球を出してしまったそうですが、次の打者も三振に打ち取ったそうで、もし四球がなければ、9連続三振(現在のプロ野球記録)となっていたそうです)
ただ、飛ばし過ぎで、6回ぐらいからバテてしまい、3対0でリードの7回に小鶴誠選手と門前真佐人選手に本塁打を打たれたほか、2点を追加され、3対4と逆転負けをしてしまったそうで、首脳陣から「やめちまえ」と言って怒られたそうです。
ちなみに、小山さんは、
当時スピードガンがあったら、私の球速は楽々150キロを超えていたと思いますよ。しかも、私のストレートはあまり減速しない。まあ、スピードというのは、打席での感覚ですから、スピードガンの数字をあまり信用してはいけないのですが。とにかく私は自分のスピードには自信を持っていましたね。
と、語っています。
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