大阪(阪神)タイガースに練習生として入団すると、練習生⇒二軍⇒一軍と順調に昇格し、無我夢中で投げるストレートだけで勝ち星を重ね、主力投手になったという、小山正明(こやま まさあき)さんですが、なかなか目標とする20勝に届かず、思い悩み始めると、プロ入り5年目の1957年、コントロール力を養うため、1年先輩の投手・渡辺省三さんをお手本に徹底的に走り込みをして下半身を鍛えたといいます。
「小山正明はストレートだけで主力投手となっていた!」からの続き
5年目の1957年には目標の20勝になかなか到達せず思い悩んでいた
大阪(阪神)タイガースに入団すると、ストレートだけで、1年目は5勝、2年目には早くもチーム最多の11勝、3年目は7勝、4年目は17勝(防御率1.66)、5年目は15勝、と順調に勝ち星を積み重ねていたという小山さんですが、
目標としていた20勝にはなかなか到達することができず、思い悩み始めると、ふと、以前、先輩の真田重蔵投手(1956年に現役引退)に、「カーブを少し使わんと苦しいぞ。ちゃんと練習しろ」と言われたことを思い出したそうです。
(当時の小山さんのピッチングスタイルは、球界トップクラスと言われた速球を無我夢中で投げ込むのみ、というものだったそうで、速球で三振をとることだけが投手の一番の仕事ではないと思い知ったのだそうです)
1年先輩の投手・渡辺省三をお手本に徹底的に走り込みをして下半身を鍛えていた
そして、ある時、小山さんと同様、テスト生上がりで、1年先輩の右腕・渡辺省三さんから、ピッチングにはコントロールが一番大切だと教わったそうですが、渡辺さんは、そのコントロール力を養うために、徹底的に走り込んで下半身を鍛えたり、投げ込んで肩を作っていたそうで、
(渡辺さんは、一度たりとも、「肩ヒジが痛い」などとは言わなかったそうです)
小山さんもこれをお手本に走り込みや投げ込みをすると、下半身がしっかりして何球投げてもフォームがまったく崩れなくなったそうで、制球も良くなったのだそうです。
(小山さんは、入団した1953年、真田投手はじめ、梶岡忠義投手や藤村隆男選手に、「小山、とにかくランニングや。ランニングでゼニを稼げ」と、口をそろえて言われるも、初めはその意味が分からなかったそうですが、後になって、強じんな下半身がないとスピードもコントロールもスタミナもつかないことが、とてもよく分かったのだそうです)
「精密機械」と称されるコントロールを身に着けたのは渡辺省三のお陰だった
こうして、後に「精密機械」と称されるコントロールをつけた小山さんは、
粘土質のマウンドで投げた際によく分かるが、踏み出す足の跡がまったく変わらなかった。僕の足は28センチ。それがきっちり6足半、全球ハンコを押したように行った。寸分の狂いもない。下半身がしっかりしているから、投球動作がブレないんや
と、語るほか、
そのことを態度で教えてくれた渡辺さんについても、
省さんがおらんかったら、以後の僕はなかったやろね。当時の僕は、100の力を全部使って投げていたんやが、それではどうしてもスタミナをロスする。
余計な力を入れず、見事に投げ分けている省さんをジッと観察するうちに「これや!」と思った。本当にいい手本になってくれたよ、あの人は。
阪神のスカウトとして長らく活躍しながら、最後は気の毒な亡くなり方をした。プライベートでどんな人と付き合いがあったのか、僕にはわからんが・・・。異彩を放っていた省さんの姿が、今でも忘れられん。(渡辺さんは転落死したとされていますが、不可解な点が多かったそうです)
と、語っています。