1975年シーズン途中に阪神タイガースに移籍するも、1976年には新たに投手コーチに就任した皆川睦雄さんと折り合いが悪く、同年限りで阪神を退団した、米田哲也(よねだ てつや)さんは、翌年の1977年には、近鉄バファローズに移籍すると、史上2人目の通算350勝を達成。ただ、それからわずか11日後に現役引退を発表します。
「米田哲也は皆川睦雄と反りが合わず阪神を退団していた!」からの続き
近鉄バファローズ移籍後に通算350勝を達成するも・・・
1976年限りで阪神を退団した米田さんは、翌1977年には、阪急時代に監督だった西本幸雄さん率いる近鉄バファローズにコーチ兼任として移籍すると、
10月7日の阪急戦(西宮球場)、6対1で近鉄がリードして迎えた4回裏、三番手で登板し、2イニングで1点を取られるものの、ここで、勝利投手の権利を手にすると、その後、3人の投手が1回1/3ずつ投げるリレーでリードを守り抜き、史上2人目の通算350勝を達成します。
350勝目を挙げ、近鉄・西本幸雄監督(左)と握手する米田哲也さん(右)。
350勝から11日後に引退した理由とは?
しかし、米田さんは、それから11日後の10月18日には、現役引退を発表しています。
実は、米田さんは、この頃、痛風に悩まされていたそうで、足が腫れて痛くて動けず、349勝した後、10日ぐらい寝込んでいたというのです。
そんな中、10月7日の試合には、西本監督や杉浦忠ピッチングコーチから、
ヨネェ!最後のゲームや、出てこい
と言われ、痛み止めを打って登板していたそうで、
かねてより病気をしたら野球をやめようと考えていたこともあり、また350勝と区切りも良かったことから、引退を決意したのだそうです。
ちなみに、米田さんは、
その時は僕、『絶対に勝利投手なるか?』『勝利投手なるか?』ってマネージャーに何度も聞いて。『なります』言われて。だから難産ですよ、350勝目は。で、これはもう辞めようと
と、語っています。
病気さえなければ400勝できていた?
とはいえ、米田さんは、現役22年間、肩やヒジの故障がほとんどなかったそうで、もし、病気さえなければ、金田正一さんの400勝を超えることができたのでは、とも言われているのですが、
米田さんは、
いやいや、そこまでは無理。もっと勝てたとは思うけど、400は無理。
いやいや、(400勝超えできなかったことについて)別になんとも思ってません。ただね、後でカネ(金田)さん、言うてました。『ヨネに抜かれんじゃないかなあ、と思ってた』って。
それで僕もね、カネさんにはっきり言うとったの。『抜いたろう! 思って行ってた』言うて。『だけど、やっぱり無理やった』って
と、語っています。
(金田さんは1969年10月10日の中日戦で通算400勝を達成しNPB歴代1位。米田さんの通算350勝はNPB歴代2位)
「米田哲也の現役(プロ野球選手)時代の成績が凄すぎる!」に続く
近鉄バファローズ時代の米田さん。