ある試合でベンチから1球1球、投手にサインが出ていたことに対して、川上哲治監督に食って掛かると、それ以来、川上監督からはバッテリーに関しては一切注文をつけられることがなかったという、森祇晶(もり まさあき)ですが、実際、緻密で堅実なリードで、巨人のV9に大きく貢献し、川上監督をして「森はV9の陰のMVP」と言わしめたといいます。
「森祇晶は川上哲治監督から頭を下げられ謝罪されていた!」からの続き
打撃でもここぞの時に打っていた
正捕手として、川上哲治監督から厚い信頼を得ていた森さんは、打撃面でも、1964年には、2割7分、12本塁打、65打点、1965年には、打順も、3番4番のON(長嶋茂雄選手と王貞治選手)の次の5番を担い、打率.277、5本塁打、58打点と、捕手ながら活躍しており、
1966年9月26日の中日戦(後楽園球場)では、中日の佐藤公博投手に9回2死までノーヒットノーランに抑えられていた中(1対0で中日リード)、
柴田勲選手が左中間二塁打でチーム初ヒットを放ち、次の打者・王貞治選手が敬遠されて、二死一二塁の場面で森さんに打順が回ってくると、初球をライトスタンドへ4号逆転サヨナラ3ランホームを放ち、巨人は3対1で中日を下しています。
(この時、巨人はすでにリーグ優勝を決めており、中日戦は消化試合だったことから、巨人打線は、優勝で気が緩み、佐藤投手に手玉に取られているような状況だったそうです)
川上哲治監督をして「森はV9の陰のMVP」と言わしめていた
また、森さんは、1967年の阪急との日本シリーズでは、打撃成績は、2割2分7厘、1本塁打、4打点ながら、金田正一投手、堀内恒夫投手、城ノ内邦雄投手ら投手陣を巧みなリードで引っ張って巨人を4勝2敗で日本一に導き、リードや機動力封じなどの守備面での貢献が大きく評価されて、日本シリーズ最優秀選手(MVP)に選ばれるほか、
1970年のロッテとの日本シリーズ第1戦(後楽園球場)では、投手戦になったこともあり、強打者のジョージ・アルトマン選手との勝負を徹底的に避けて、4打席を四球(うち3打席は敬遠)、最後の5打席目をレフトフライ(アルトマン選手が無理にボール球を打ちに行ったそうです)に打ち取り、延長戦の末、巨人をサヨナラ勝ち(1対0)に導いており、川上哲治監督をして「森はV9の陰のMVP」と言わしめています。
(1試合4四球3敬遠は、日本シリーズ新記録だったそうです)
福本豊にも盗塁をほとんど許さなかった
また、1971年と1972年の阪急との日本シリーズでは、クイックモーションの名手・堀本律雄投手とのバッテリーで、
シーズン106盗塁という驚異的な数字を残していた福本豊選手の盗塁をほとんど許さなかったほか、阪急の打線を機能させず、パ・リーグの王者たちをことごとく蹴散らしたのでした。
「森祇晶は長嶋茂雄の引退の陰でひっそり現役を引退していた!」に続く