1969年4月、ミュージカル「ラ・マンチャの男」でミゲル・セルバンテスとアロンソ・キハーナの2役を演じると、同年9月には、世界各地でセルバンテスを演じた俳優が招かれ共演する企画「国際ドン・キホーテフェスティバル」への出演オファーを受けた、二代目松本白鸚(まつもと はくおう)さんは、1970年1月下旬、渡米すると、3月2日には、ブロードウェイの舞台で日本人初の主演を務めます。
「松本白鸚(2代目)は若い頃「国際ドンキホーテフェスティバル」に出演していた!」からの続き
ニューヨークでは舞台稽古と英語の特訓の毎日だった
白鸚さんは、1970年1月下旬、ニューヨークに渡り、「国際ドン・キホーテ・フェスティバル」が開かれるマーチンベック劇場まで歩いていけるホテルに滞在すると、現地ではアリス・ヘルメさんという先生から英語のセリフの特訓を受けたそうですが、
2月初めから舞台稽古が始まると、午前11時から夕方5時頃まで稽古し、夜、アリス先生の英語の特訓を受けたそうです。
(セリフの不完全なところは徹底的に指摘されたそうです)
そして、ついに、3月2日、初日を迎えるのですが、
白鸚さんは、その日のことを、著書「私の履歴書」で、
日本初のブロードウェイ主演。初日の緊張は心臓の鼓動がはっきりと聞こえてくるほどで、筆舌に尽くしがたい。恐ろしいほどの圧迫感で客席が迫ってきた。
ブラボーという歓声とどっとわきおこる拍手。圧倒されながら一種の快感もあった。幕が下りた後、誰もいなくなった楽屋で、ホッと息をつき、汗と涙でぐしゃぐしゃになった顔を落としながら、妻と目を見つめ合った。
と、綴っています。
公演中は心身ともに疲れ果てホテルに帰ると倒れるように眠る毎日だった
そして、白鸚さんは、千秋楽の5月9日まで、60ステージという長丁場(リハーサルも入れて4ヶ月)を夢中で務めたそうですが、
(英国、オーストラリア、イスラエルなど、各国のドン・キホーテが10週間ずつ公演したそうです)
舞台で、2時間半、歌い、踊り、英語のセリフをしゃべった後、遅い夕食をチャイナタウンで済ませてホテルに戻ると、心身ともに疲れ果て、そのまま倒れ込むように眠る毎日だったそうです。
疲労のため最悪のコンディションで舞台に立った日はセルバンテスの痛みと自己暗示をかけ乗り切っていた
ちなみに、公演中盤には、疲労のため、最悪のコンディションで舞台に立った日があったそうですが、重い体を抱えて出番を待っている時、ふと、
この具合の悪さは、私自身ではなく、これから演じるセルバンテスの痛みなんだ
と考え、自己暗示をかけて舞台を乗り切ると、
楽屋に戻って、奥さんに、「最低の出来だったろ」と聞くも、奥さんは「今までで一番いい出来だった」と言ったそうで、
白鸚さんは、著書「私の履歴書」で、
きっとその日は欲もてらいもなく、ただ役になりきって一心に演じようという気持ちだけだったのだろう。
と、綴っています。
(そんな苦しい時期、父・八代目松本幸四郎さんから届いた手紙には、便箋の真ん中に大きな字で「おれはお前を信じている。父」と書いてあったそうで、白鸚さんはそれを読み、胸がいっぱいになって涙がボロボロとこぼれたそうです)
「松本白鸚(2代目)の「ラ・マンチャの男」は日本でも反響を呼んでいた!」に続く