祖父・初代市川猿翁さんと父・三代目市川段四郎さんを相次いで亡くした、二代目市川猿翁(にだいめ いちかわ えんおう)さんは、後ろ盾がないことで良い役をもらえないほか、事がスムーズに運ばずに揉めることもあったそうですが、それならば打って出ようと、自主公演「春秋会」を始めたといいます。

「市川猿翁(2代目)は祖父と父を亡くすも他門には入らなかった!」からの続き

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市川宗家の家芸「新歌舞伎十八番」を「澤瀉屋」の型でやることに十一代目市川団十郎からクレームがついていた

1963年には、おじいさん(初代市川猿翁)から猿之助を引き継ぐも、1ヶ月も経たないうちにおじいさん、半年も経たないうちに、お父さんの三代目市川段四郎さんを亡くした猿翁(当時は三代目市川猿之助)さんは、

1965年8月の新橋演舞場公演に際し、新聞の取材を受け、「うちの祖父の通りに『素襖落(すおうおとし)』をやる」と答えたそうですが、この記事を見た十一代目市川団十郎さんが人を介して、「上演を差し止める」と松竹に申し入れてきたといいます。

というのも、市川宗家の家芸である「新歌舞伎十八番」を「澤瀉屋(おもだかや)」の型でやるとは何事だ、というのがその理由で、これに対し、ごたごたを恐れた松竹は、猿翁さんに演目を変えてくれるよう持ちかけてきたのだそうです。

十一代目市川団十郎に直談判していた

そこで、猿翁(当時は三代目市川猿之助)さんは、図々しくも団十郎邸へ直談判に行ったそうですが、団十郎さんはというと、舞台とは違い、あー、うーと口が重く、あまりしゃべらなかったそうで、

(そばでマネジャーばかりがしゃべりまくっていたそうです)

猿翁さんが、

祖父の通りという意味は、ユーモラスな持ち味の事を言ったまでです。祖父のやり方は、ト書浄瑠璃が入った市川家の新歌舞伎十八番そのままなのです

と、言うと、

稽古を見て結論を出す、ということになったのだそうです。

(団十郎さんは、この時まで、お芝居の子細を知らなかったそうです)

すると、後日、団十郎さんがマネージャーを寄越し、形式的に稽古の検分をしたそうで、よろしいでしょうとの返事があったのだそうです。

(板挟みになっていた松竹は、ホッと胸を撫で下ろしたそうですが、このような出来事は、歌舞伎界ではよくあることで、当事者同士が話し合えばなんともない問題でも、いろいろな人が間に入ることで、余計にことがややこしくなるのだそうです。ただ、この場合、団十郎さんが、さっぱりした性格で理解ある人だったため、大事にならずに済んだのだそうです)

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「春秋会」では自ら劇場を借りて脚本・演出もしていた

さておき、肉親を失っても、他門(力ある先輩のもと)に行かなかったため、なかなか良い役につけなかったという猿翁(当時は三代目市川猿之助)さんは、それならば、打って出ようと、自ら劇場を借りて、脚本も書き、演出もしてやろうと勇み立ち、自主公演「春秋会」を始めたそうで、

1966年7月には、東横ホールで「春秋会」の第1回公演「石切勘平」(おじいさんから聞いていた忠臣蔵の変型版「太平記忠臣講釈」の五段目)を3日間打つと、

続く、第2回公演は、新橋演舞場で、並木五瓶の「金門五三桐(きんもんごさんのきり)」を190年ぶりに復活通し上演するのですが・・・

3日間の公演で300万円の大赤字を出してしまったといいます。

ただ、第3回公演で歌舞伎座に進出すると、3日のうち2日間が超満員の大盛況だったそうで、以降、第4回、第5回と順調に回を重ね、1977年までに第7回公演を行っており、

猿翁さんは、「私の履歴書」で、

猿之助歌舞伎といわれるものがあるとすれば、春秋会が源流といえる。演出する力も、考える力も春秋会で養った。私はただ役者でいるよりも、考えることや創(つく)ることが好きだとハッキリわかった。

と、語っています。

(猿翁さんが自主公演をするに当たり、幸運にも、踊りの師匠・六代目藤間勘十郎さん、観世栄夫さん、黒御簾音楽の第一人者・杵屋栄左衛門さん、演出家・戸部銀作さんなどが力になってくれたそうです)

「市川猿翁(2代目)が若い頃は歌舞伎で宙乗りをし大当たりとなっていた!」に続く

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