幼少期から新聞で丸めた球を棒で打つ遊びをし、小4の時には、お兄さんの影響で、地元の学童野球チームに入部したという、落合博満(おちあい ひろみつ)さんは、中学でも高校でも、1年生にしていきなり4番を打っていたといいます。
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中学の時は1年生にして4番でエース
小学校に入る前から新聞で丸めた球を棒で打つ遊びをし、小学4年生の時には、お兄さんの影響で、地元の学童野球チームに入部したという落合さんは、中学に進学すると、野球部に入部したそうですが、1年生からいきなり4番・エースに起用されたそうで、
南秋田郡の大会で1回戦で負けた際には、地元紙のスポーツ欄に「怪童、1回戦で散る」と、大きく書かれたそうです。
(野球部自体は、いつも1、2回戦で敗退する弱小チームだったそうです)
中学3年生の時に90メートルを超える本塁打を放ち、秋田県内の名門高校から勧誘が殺到していた
そんな落合さんは、3年生の時には、チームを地区大会の決勝まで導いたそうで、決勝は惜しくも準優勝に終わるも、この試合では90メートルを超える本塁打を放ったことから、秋田県内の幾多の野球名門校から入学の勧誘を受けたそうですが、
(野球では、県内のどの高校にも行けるレベルだったそうで、学校関係者が自宅に来て、「受験番号と名前さえ書いてくれればいい」と言われたそうです)
一番練習が楽そうで、「選手をあまりいじらない」と聞いたことや、高校卒業後は建築関係の仕事に就職すると決めていたこともあり、秋田県立秋田工業高等学校に進学したのだそうです。
(落合さんは、数学と国語はできたそうですが、英語は全くダメだったそうで、いつも、英語の試験の答案用紙は白紙で出していたそうですが、高校受験でも英語は白紙で出したのだそうです)
高校でも1年生にして4番・投手に抜擢されるも、入部3ヶ月で右肩と腰を痛め、外野手に転向していた
そして、秋田県立秋田工業高等学校野球部では、新入生がフリーバッティングをさせられたそうですが、落合さんは、一人、打球をすべてバットの芯でとらえ、センターオーバーにホームランしたそうで、即座に、4番・投手に起用されたのだそうです。
ただ、入部3ヶ月で、右肩と腰を痛めたそうで、投手を断念し、外野手に転向したのだそうです。
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