東京芝浦電気の府中工場野球部(東芝府中)のセレクションに見事合格し、東京芝浦電気の府中工場に臨時工として入社すると、東芝府中の広いグラウンドで、生まれて初めて、無我夢中で野球に打ち込み、ますますバッティングに凄みを増したという、落合博満(おちあい ひろみつ)さんは、1977年のドラフト会議直前には、阪神タイガースのスカウトから、ドラフト指名の可能性が伝えられたそうですが・・・
「落合博満は東芝府中でいきなり4番に抜擢されていた!」からの続き
東芝府中入社3年目にはオープン戦で4打席連続本塁打を放っていた
東京芝浦電気の府中工場に入社し、生まれて初めて無我夢中になって野球に集中できたという落合さんは、入社3年目の1976年には、オープン戦で4打席連続ホームランの離れ業を披露するほか、南関東大会ではチームを優勝に導きます。
さらに、都市対抗野球(東芝府中創部23年目で初出場)でも、予選決勝で3ランを放つ活躍で、夏の本戦出場にも大きく貢献します。
(落合さんはこの年のMVPに輝いています)
東芝府中在籍5年間で通算70本塁打を記録
また、落合さんは、1974~1978年、東京芝浦電気の府中工場(東芝府中)在籍5年間の公式戦で、通算70本塁打を記録しているのですが、
東芝に所属していた高代延博さん(後に落合さんの中日監督時代の一軍野手総合チーフコーチ)は、当時の落合さんの凄まじさについて、
関東大会では、(東芝府中の試合を観戦していると)バックスクリーンに3回飛んできた。全部落合。バッティングはすごかった。申し訳ないけど簡単に打っているように見えた。豪快さがなく、パーンという感じ。
と、語っています。
(そんな落合さんは、都市対抗野球に、日本通運・電電東京の補強選手として3年連続出場するほか、入社5年目の1978年には、木田勇選手、森繁和選手らとともに、イタリアで開催された「第25回アマチュア野球世界選手権」の全日本チームの日本代表(3番打者)に選出されています)
阪神タイガースにドラフト指名の可能性を伝えられていたが・・・
そんな落合さんには、プロのスカウトも挨拶に来るようになったそうですが、会社は、大切なチームの戦力である落合さんを、当初は「出せない」と拒否していたそうです。
それでも、1977年には、会社も許可してくれたそうで、この年(1977年)のドラフト会議直前には、阪神タイガースのスカウト・田丸仁さんから、「阪神はお前をドラフトに挙げようとしているけど、ドラフトに挙げたら来るか?」と、指名の可能性を伝えられたそうで、
落合さんは、
はい。喜んで行きます。東北の生まれですけど、関西でもどこでも行きますよ
と、答え、阪神の指名を心待ちにしていたそうですが・・・
ドラフト会議当日、阪神は別の社会人の内野手を指名。
落合さんは、後に、その時のことを、
だから、そこの枠はあったはず。でも、俺の名前ではなかった。俺、期待したんだよ、あの時は
と、語っています。
「落合博満がロッテ入団時ドラ2ドラ4は入団拒否していた!」に続く