「全権委任」を条件に中日の監督に就任したという、落合博満(おちあい ひろみつ)さんは、コーチ陣も自ら招聘したそうですが、一番初めに声をかけたのは、解説者時代、根本陸夫氏に、監督になったら使うよう勧められていたという森繁和氏だったといいます。

「落合博満は中日監督就任時コーチに暴力即解雇の誓約書を書かせていた!」からの続き

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コーチ陣を招聘する際、森繁和に一番最初に声をかけていた

2003年10月8日、中日の監督に就任した落合さんは、コーチ陣を招聘するため、思い当たる人に片っ端から電話をかけて了承を得、1週間ほどで全コーチが決まったそうですが、まず、一番最初に声をかけたのは森繁和(ヘッドコーチ)氏だったそうです。

森さんは、この時、横浜ベイスターズで一軍投手コーチをしていたそうですが、来季、横浜で契約しないという記事が新聞に出ているのを見て、それならばと、電話で要請したのだそうです。

(現役の選手には声をかけなかったそうですが、それは、所属の球団を辞めてまで、来季、中日に来て仕事をさせることをしたくなかったからだそうです)

解説者時代、監督になったらコーチに森繁和を使うよう根本陸夫から勧められていた

ちなみに、落合さんが、なぜ一番最初に森さんに声をかけたかというと、落合さんが現役引退後、解説者としてキャンプを回っていた際、高知県のグラウンドで、根本陸夫さん(ダイエー代表取締役専務兼監督など)に、「おい、お前こっち来い、話あるから」と言われ、その後、根本さんと野球を見ないでずーっと練習が終わるまで話をしたそうですが、その時に、

万が一お前が監督やるような時があったら森繁和を使ってみろ

オレが教育してあるから絶対お前の役にはたつはずだよ

と、言われたというのです。

(根本さんは1999年に他界されており、これが遺言のような形になったそうです)

そこで、落合さんは、根本さんの猛プッシュに加え、森さんが現役を辞めてから1度もユニホームを脱いでいないことも知り、

(森さんは、1988年限りで現役を引退しているのですが、根本さんにコーチとしての資質を見出されて早めに引退させられたそうで、その後は、西武ライオンズ (1989-1999)⇒日本ハムファイターズ (2000-2001)⇒横浜ベイスターズ (2002-2003)でコーチをしていました)

ユニホームを脱いでないということは、何かしら良いものがあるのではと思ったそうで、森さんに電話をかけたのだそうです。

(実は、落合さんが社会人野球で東芝府中に所属していた時代、森さんも社会人野球で住友和歌山製鉄所に所属していたそうで、一緒にイタリア世界大会に選ばれたことがあったそうです)

高額オファーに森繁和は面食らっていた

さておき、落合さんは、森さんに電話でコーチ就任を要請した際、条件を全て言ったそうですが、森さんには、「えっ?」と言われたそうで、「足んねーか」と聞くと、森さんは、「いや、今すぐにでもハンコ押します」と言い、すぐにコーチを引き受けてくれたそうです。

実は、落合さんが提示した条件(年俸)は、中日は本拠地が名古屋であることから単身赴任で生活にお金がかかる分も上乗せした金額だったそうで、森さんは金額が高過ぎて面食らっていたのでした。

(落合さんは全権を任されていたことから、森さんの年俸も自分で決めたのだそうです)

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全コーチの年俸を自分で決めていた

ただ、落合さんがその金額を西川順之助球団社長に持っていくと、「えっ?」と言われたそうで、落合さんが、「どうしたんですか」と聞くと、西川社長には「契約事は球団がやるんでその年俸まで決めてきたのか」と言われたそうです。

それでも、落合さんが

全権任すからって言うから全部決めましたよ。これでだめですか

と、言うと、

西川社長は「う~ん」と唸りつつも、最終的には、「よし、分かった」と二つ返事で、了承してくれたそうで、以降、落合さんは、高代延博氏、石嶺和彦氏、勝崎耕世氏、宇野勝氏、鈴木孝政氏、長嶋清幸氏、の順で声をかけ、全員の年俸を自分で決めたのだそうです。

(落合さんが出した条件をそのまま球団が飲む、という形をとっていたため、(複数年契約ではなかったのですが)コーチ陣は一切契約更改をしなかったそうで、落合さんは、「もしオレが言った条件と違うんだったらオレに電話よこせ」とコーチ陣に言っていたそうです。そのため、コーチたちは辞めるまで年俸闘争をすることがなかったそうです)

「落合博満は中日監督1年目はほぼ補強なし(現有戦力)で戦っていた!」に続く

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