阪神タイガースにドラフト6位で入団すると、二軍での練習後も、阪神・武庫川駅の河川敷でひたすら一人練習に励んでいたという、掛布雅之(かけふ まさゆき)さんは、1974年、入団1年目のオープン戦では18打数8安打2二塁打の好成績を残し、見事、開幕一軍を果たしています。
「掛布雅之は阪神入団1年目は月給7万円で生活が苦しかった!」からの続き
オープン戦での代打での初打席は凡打に終わるも、2回目の代打では中前適時打を放っていた
二軍での練習後も、毎晩、一人練習に励んでいたという掛布さんですが、1974年3月14日、日本ハム戦(皇子山)での初出場(代打)は凡打で終わってしまったそうです。
しかし、3月18日、二軍戦(西宮)を終え、甲子園に戻ると、一軍は南海戦の真っ最中だったそうで、一軍の中村和富マネージャーから「そのままベンチに行け。監督が来いって」と呼ばれ、8回裏2死三塁の場面で、代打で起用されると、野崎恒男投手から、見事、二遊間をゴロで抜く中前適時打を放ったのだそうです。
(この日は寒く、観客はわずか1500人の試合で、翌朝のサンケイスポーツ新聞にさえ、掛布さんの記事は載らなかったそうですが、掛布さんは、この一軍初安打を、自著「猛虎が吼えた」で「野球人生を大きく変えてくれた生涯忘れてはならない安打」と綴っています)
太平洋クラブ(現・西武)ライオンズ戦で、急遽、一軍のスタメンに起用されると、エースの東尾修から4打数2安打していた
そんな掛布さんは、1974年3月21日、太平洋クラブライオンズ(現・西武)とのオープン戦で、急に一軍に呼ばれ、7番・遊撃手としてスタメン出場すると、エース・東尾修投手から4打数2安打。
(掛布さんは、東尾投手から2安打した時、「辞めよう」と思って入団した気持ちが「やる野球」に変わったのだそうです)
さらに、3日後の近鉄バファローズ(現・オリックス)とのオープン戦でも、8番・三塁手としてスタメン起用されると、4打数4安打の活躍をするほか、守備も良かったことから、一躍、脚光を浴び、新聞に「阪神にすい星!現る」と書き立てられたのだそうです。
少ないチャンスをものにしていた
実は、エース・東尾修投手から4打数2安打した3月21日の太平洋戦は、自身の結婚式で欠場して不在だった、正遊撃手・藤田平選手の代わりでの出場で、
4打数4安打した3日後の近鉄バファローズ戦も、二塁手・野田征稔選手(後にマネージャー)が母親の逝去(父親の危篤という話も)で急遽、長崎に帰郷したことによる出場だったそうで、
掛布さんはその数少ないチャンスを見事ものにしたのでした。
金田正泰監督の猛プッシュで開幕ベンチ入りを果たしていた
そんな掛布さんは、開幕戦のベンチ入りも果たすのですが、実は、掛布さんの開幕ベンチ入りを強く押してくれたのは金田正泰監督で、
掛布さんをキャンプで二軍からスタートさせたのも、高卒新人は一軍では雑用でバットも振れないからと、二軍で好きなだけ打たせてやりたいという金田監督の考えだったそうで、
掛布さんは、後に、(掛布さんが阪神入団時コーチだった)安藤統男さんから、
すごかったんだぞ、金田さんのお前に対する期待は。俺たちがどんなに反対しても開幕一軍を頑として譲らなかった
と、聞いたそうです。
「掛布雅之は同期ドラ1の佐野仙好と争い三塁手レギュラーを勝ち取っていた!」に続く